JunichiOoya

緑の牢獄のJunichiOoyaのレビュー・感想・評価

緑の牢獄(2021年製作の映画)
2.0
レビューが遅くなった。
図書館で予約した『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』の予約順がようやく回って来て、本を読み終えることができたので改めて。

映画は、その素材から大いに期待していたのだけれど、実は違和感いっぱいで、まるで楽しめなかった。ご覧になった皆さんには概ね合点していただけるかと思うのだが、①作中登場するアメリカ人プータローの扱い②主人公たるおばあの父「養父」の扱い③そして何より挿入される劇作パートについて、などなど。

まあ、見る前からに大いなる既視感を抱いたこともあって、「なんだろう、この感覚は」ってところだっただが…。

なるほど元ネタは三木健の80年代の著作群なのか、と。中でも最大の落胆は『緑の牢獄』というタイトルそのものが三木さんのネーミングだったということ。これは反則やと思う。

で、本のことなのだが。
①のアメリカ人ルイス(やたら関西弁が流暢)の唐突な登場と退場。彼の存在に異和を感じる観客を肯定しながら監督は、ルイスを「おばあに伴走者のように共生し、必要欠くべからざる重要人物」と情緒面で肯定するのみ。
②養父は完全な炭鉱労働者ではなく、日帝と労働者を繋ぐ中間搾取者たる「斤先人(きんさきにん)」なのだが、それを認識しつつ、本も映画も落とし前をあやふやにしたまま。
③おばあは映画完成前に亡くなってしまい、作家の想いを表現するには劇作パートの挿入しか途はなかったと主張しつつ、自分たちスタッフが劇作演出の素人であり、かつ資金に余裕がなかったと「言い訳」を繰り返す。
つまり何から何まであやふやで作家の目線に肝の据わったところがないのよね。

本の中には、そもそもの元ネタたる三木健さんの著作についての言及と並んで、第二の元ネタたるNDU(日本ドキュメンタリストユニオン)の『アジアはひとつ』(1973)についての多少中途半端な言及も。
NDU中心人物の布川徹郎については一言だけ「すでに亡くなっている」と触れられるがもう一人の広河隆一については無視。(ま、今となっては触れ方の難しい方だが)
『モトシンカカランヌー』や『風ッ喰らい時逆しま』についても当然言及なし。

映画制作の過程で、田川市の石炭歴史博物館(山本作兵衛)、伊藤伝右衛門邸(柳原白蓮)、そして端島炭坑(軍艦島)を巡る過程も紹介されるのだが、どれもこれもなんとも上っ面で…。

そんな辺りが、映画からほの見えた食い足りなさの元凶で、少なくとも本を先に読んでいたら、まあ絶対にこの映画を見ることはなかったなあ、と。
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