映画漬廃人伊波興一

ともだちの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

ともだち(1974年製作の映画)
3.3
70〜80年代の日活映画の真価が数多くの傑作ロマンポルノである事に異存はありません。が、実は児童映画にも瞠目すべき作品があった事実は、もう少し取り上げられていいと思います

澤田 幸弘
「ともだち」

子供たちの存在が生々しく迫ってくる映画というものは、その未熟さをことさら現実的に際立たせて描いているわけではない、と思う。

例えば小津安二郎の傑作サイレント「「大人の見る繪本 生まれてはみたけれど」の菅原秀雄・突貫小僧の兄弟コンビは未熟どころか(雀の卵)というお宝を巡って(親自慢)という虎の威を纏った東京郊外の腕白小僧たちの間に、スクールカーストという抗争を勃発させる狡猾なギャングです。

塩田明彦の素晴らしい「どこまでもいこう」の悪童アキラと光一にしても、新学期に別々のクラスに分かれてしまった事を契機に、ただでさえ小悪事が事欠かない団地という舞台設定を、一触即発で(仁義なき戦い)的な派閥戦場に変えてしまいます。

相米慎二の「台風クラブ」や「ションベン・ライダー」そして「夏の庭 The Friends」の少年少女らのアナーキーぶりに誰も子供じみた未熟さなど抱きません。

そしてジャン・ヴィゴの「新学期 操行ゼロ」やジョン・カサヴェテスの「こわれゆく女」そしてアッバス・キアロスタミの「ホームワーク」「友だちのうちはどこ?」に登場した子供たちの生々しさは、絶対に大人たちの憐憫や郷愁など誘発するものではない。

私個人の見識に過ぎないかもしれませんがルイ・マルの「ルシアンの青春」や「さよなら子供たち」、ジョージ・ロイ・ヒルの「リトル・ロマンス」、そして名作「ニューシネマ・パラダイス」や日本のアニメ「火垂るの墓」などの作品は、完成度の優劣とは別の次元で、登場する子供たちの魅力を容認するのにいささか躊躇いを覚えます。

未熟さ故の(本当らしい)痛ましさや懐かしさを、どこか大人たちに従属的に求めている気がするからです。

登場する子供たちを取り巻く(本当らしさ)や、(現実性)がふっと希薄になり、子供たち自身が淡い影を纏(まと)うように神話性を帯び、これは飽くまで映画なのだ、という事実を寡黙に告げてくる瞬間こそが、子供の存在が生々しく迫ってくる事に他ならないと個人的に思っています。

そうでなければ侯孝賢の「冬冬の夏休み」や「川の流れに草は青々」、エドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」そしてビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」などに登場する、思春期とさえ呼べない少年少女たちが醸す不思議な不思議な息遣いや官能ぶりに説明がつかないのです。

小学生の時に学内上映された武田一成監督の「先生のつうしんぼ」と澤田幸弘監督の「ともだち」という児童映画が、日活が運営する(チャンネルNECO)にて放映されて久しぶりに鑑賞出来ました。
どちらも面白い映画だったという印象が40年以上経た現在でも全く変わらない事に驚きます。

当時の日活のメインがロマンポルノであったのはご周知の通り。
ポルノ映画と児童映画、互いに背反的なふたつの映画事業ですが、いや、だからこそ当時小学生だった私にも息遣いや官能的な生々しさが伝わり、記憶に根づいていたのではないか。

もしも松竹大船調のホームドラマ仕様で拵えられた児童映画だったらこんな記憶はなかったかもしれないのです。

70〜80年代の日活の真価はロマンポルノだけではない。
実は児童映画にも瞠目すべき作品があった事実は、もう少し取り上げられていいと思います。
埋没させるにはあまりに勿体ない事です。