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マリア・ブラウンの結婚のtntnのレビュー・感想・評価

マリア・ブラウンの結婚(1978年製作の映画)
5.0
戦後ドイツの市井を描くという意味では、ここ数日テレビや新聞で見聞きした事と重なった。
「もはや戦後ではない」という認識が生まれるまさにその瞬間に、爆発と共に映画は終わる。
社会構造を全て個人の問題に置き換える事でその根本の解決は宙吊りにされるのがメロドラマであるが、一方本作において、社会を示す要素は全てラジオを通して家庭の中に収斂しながらも、同時に主人公達の個人の問題と同居することはなく「ノイズ」としてそこにあり続ける。
ファスビンダーは、同時代のドイツ社会に極めてコンシャスな作家だったと思うが、本作から『ベルリンアレクサンダー広場』など、ドイツの歴史に踏み込んでいく。
この映画で描かれる権力闘争、言語の差異、男達のホモソーシャルな関係と搾取の背後に、戦時中から戦後に至るドイツ社会が見据えられてる。




再鑑賞。これまた最高に面白いやつ。
二回見ると、序盤のタバコをめぐるやり取りが、あの印象的なラストの伏線になってることに気がついた。
マリア・ブラウンは、誰ともはっきりと視線を交わすことなく、自分の見たいものを見続ける。自分の置かれた状況を巧みに理解し、言語も世界も使い分けて生きる彼女は、メロドラマ的主人公とは言えない。だから、最後に「家」を立てて彼女が「窓」の内側に下がった時点で、もう終わりなのだ。
アデナウアーの経済復興政策と、再軍備で終わるのも綺麗な円環構造。
終盤、レストランで嘔吐するマリアの場面が一瞬挟み込まれる。決定的瞬間だけ挿入する編集のテンポ感は、黒沢清ぽい。
「愛には厳しい時代ね」
「私は仮装の達人、現代のマタ・ハリよ」
などパンチラインの連続。



ファスビンダー、流石に面白い。
「私は仮装の達人なのよ」と自己言及することからも明らかなように、この映画の中でマリアは、幾度も髪型を変え、操る言語を変えることで、英語圏とドイツ語圏、夫と愛人、貧窮する実家とブルジョワ階級との付き合い、といった様々な世界に通用する顔をもち(そういえばこの印象的なポスターは、マリア・ブラウンの顔のクローズアップ)、それらの世界の垣根を「越境」していく。
男社会の中で出世するマリアの姿を、一方的に見つめ疎外する集団は現れず(アメリカ兵御用達のバーに、マリアが現れる場面でさえ、彼女とアメリカ兵は一直線に結ばれる)、その生き様はファスビンダーの映画には珍しく清々しい感覚がある。
ヒトラーの写真が爆発し、戦後ワールドカップでドイツがハンガリーを敗るシーンで終わると、ドイツの敗戦から復興までの歴史とマリア・ブラウンの人生はシンクロしている。ラジオ音声のうるさい使い方は、『第3世代』も思い出すし、それはノイズとしての機能よりも、台詞と同じくらい社会的背景を物語る語り手としての機能を持っているように思えた。
撮影も相変わらず素晴らしい。ファスビンダー十八番の、何か越しに見える対象という撮影技法は、今作の場合、視線の強調というよりも枠構造に囚われた人間たちを映すように見える。マリアブラウンは、「見られる」存在ではなく明らかに「見てしまう」存在であり、母親の再婚相手を見つけるシーンにそれが顕著。前半の家の壁に開いた穴が物語る戦争の跡、ベッドの上でのアメリカ兵士の肉体的存在感なども印象的だし、何より終盤にベティとマリアが、すっかり復興が進む建物の間の瓦礫の中で抱きしめ合うシーンの連帯に泣く。
わかりやすいフェミニズムメッセージはないし、どちらかといえば、たくましくサバイブする女性をエンパワーメントするというよりも彼女の悲劇的な人生を描く映画ではあるのだが、マリアブラウンの仮装ぶりにバトラーが言うところの「攪乱」の要素を感じた。
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