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ニッポン国 古屋敷村の一のレビュー・感想・評価

ニッポン国 古屋敷村(1982年製作の映画)
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本作の演出について『映画を獲る』の中で監督が語っている部分。「そのときに僕が採った方法は、映画の内容をストーリーもなにもその人にみんな話すんです。(略)できればラッシュも見てもらって。で、その人と一緒に見て、「これでいいですか」「いやあ、あそこうまくないなあ」「もういっぺんしゃべり直しましょう」とか、やっていく。その間に一週間とか二週間かかるわけだけれど、そういう関係をできる限りつづけていくと、いつの間にか相手が心配してくれるのね。(略)むこうの人が動いてくれる、有機的に。フィルムを中心に回りだすんですよ。そこのところが、僕にいわすと、ドキュメンタリーの至福ですね。」「記録映画は事実じゃないんですよ。明らかにそこには「劇」が働いてるんだね。彼女が自分をこう見せたいって「劇」が働くんですよ。これは美しいことですよ。それを覗けるんです。こんな幸せなことはない。」このように3時間半に及ぶ上映時間の後半部を占めるインタビューパートは、実は半ばインサイダーと化した撮影隊(「空気みたい」な存在感でカメラを構える田村正毅)と村人たちとの緊密な共同作業であったのだが、前半部分の驚くほど丁寧な科学的実証パートもまた、加藤幹郎が「重要なことは、その説明(化学反応のイラストレーション)が古屋敷村の田園で不作を経験した農業従事者とスタッフのあいだで、手ずからおこなわれるということにある。」と指摘するように、両者の共同作業であり、だから本作に徹頭徹尾通低するのは、撮影者と被写体の親密な関係性である。何十年という時間が堆積した“おわり街道”を登るその足取りの慎ましさも、炭窯の中で赤々と輝く木片の美しさも、かつて村に上がった花火を回想するその手振りの雄弁さも、貝の化石も、軍服を着て吹き鳴らすラッパの音も、すべてはそれに付随する形でカメラの前に現出した豊かな至福の瞬間なのだ。
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