わたべ

リズと青い鳥のわたべのレビュー・感想・評価

リズと青い鳥(2018年製作の映画)
5.0
『リズと青い鳥』という映画はポスターから配布された劇場特典まで含め、ガラス窓を配置したレイアウトが印象に残る。学校を舞台にする都合上、本作本編にも「ほぼ常に」と言っていいくらいガラス窓が映りこむ。その多くは閉じられているのだが、開かれる瞬間、あるいはすでに開いているシーンも印象的だ。映像作品において、ガラス窓は登場人物の心象を反映するアイテムであることが多いけれど、ここでも例外ではないということを実感できる。
ちなみに、ガラス窓は英語でwindow glassといい、windowとはその字面のとおり、windを語源の一部とするようだ。
(だから、というにはアホっぽい指摘ではあるけれど、この映画はwindowとwindがつながっているのではないかという気もする)

windに“風”という意味があることを知らない人はいないだろうけれど、“吹奏楽器”(wind instrunments)という使い方があることも、この作品を鑑賞するような方はご承知のとおりかと思う。
どうも『リズと青い鳥』では“風”は随所に、というよりほぼ常に暗示されているようで、それはもちろん、鳥が飛ぶためには風を受けなければ(あるいは風に乗らなければ)ならないからである。
青い鳥が飛びたつ。この作品がその瞬間をとらえた物語ということであれば、そのとき風はそこにあるはずだ。

さて、この映画は傘木希美のいうような「物語はハッピーエンド」だったかどうか。

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校門でひとり希美を待ち、彼女を追いかけるように歩く鎧塚みぞれ。途中、希美は何度か振りかえり、時には階段の下にいるみぞれを見下ろす。
音楽室のドアを開き、課題曲のそれぞれのパートを「吹いて」合わせる彼女たちの、楽器同士のピッチは合わない。冒頭10分の、丁寧に描かれたこの一連のシーケンスは、映画全体の縮図でもある。ふたりの“合わなさ”が映画全体のムードを支配する。

音楽的実力という面から、鎧塚みぞれと傘木希美を比較すればまさに“合わない”。みぞれが高い演奏力と表現力をもち、音楽的飛翔を果たすだろうことは劇中で示唆され、また描かれる。そして希美がそこに至らないということも、ゆでたまご、剥製の鳥、進路相談時の影などで予言される。さらに決定的な実力の差は、みぞれの演奏により示され、希美は演奏中に涙すらこぼす。

美しくシリアスで、それでもやはりどこか噛み合わない科学室の会話を経て、ふたりの心境には大きな変化が訪れる。ともに過ごした音楽室にはひとりが残り、ひとりは図書室への廊下を進む。

終幕前の5分は冒頭と対になっている。登校ではなく下校、前に踏み出る人物、立ち位置による目線の関係は入れ替わっている。しかしふたりの呼吸はここで“合う”。「本番、頑張ろう」という未来にむけた台詞は声が揃う。

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長々と本編の粗い筋を書き出してしまったけれど、この映画の本筋は希美とみぞれの新しい(disjointからjointへと至る)関係性のはじまりである。剣崎りりかの存在や音楽的な才能の多寡などはきっかけにすぎないし、もしかしたらリズ─青い鳥のロールのチェンジなどもあまり重要ではないかもしれない。

そもそも『リズと青い鳥』という映画は何かの「最後」を語る作品ではない。クライマックスは第三楽章(最終楽章ではない)であり、劇中で本番は訪れない。受験もなければ当然、卒業もない。描写はされるが時刻をしめさない時計は、なにかの「途中」であることをずっと匂わせている。(「本番なんてこなければいい」「私にはずっと今」といったセリフもそれを裏付ける)

『リズと青い鳥』とは、変化(思春期なので成長、の方がいいだろう)の過程を切り取りつつ、鳥が飛びたつ──つまり彼女たちの“今後”が始まるその瞬間を描いた作品ではないだろうか。どんなエンディングが訪れるかはむしろこれからの彼女たち次第だろう。

HomecomingsによるEDソングは、動きだした時計の針のように、メトロノームがはじまりを告げる。曲調は劇中の吹奏楽とも、また牛尾憲輔による劇伴ともムードも質も異にするポップソングで──タイトルは「Songbirds」である。

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