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失明に関する所感の海のレビュー・感想・評価

失明に関する所感(2016年製作の映画)
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2020年6月、今から20年後には犬や猫との会話が可能になるだろうという未来予測を文部科学省が発表した。初めてそれを耳にしたのは夕方のラジオ番組で、すごいなぁと思いながら、だけれど今わたしが理解しようと励む以上にその音声か文字が、正しいものなんだろうかと疑った。失明した人に、夢やトランスの中で視覚的イメージを伝えることは可能なんだろうか。目の前に居る人の顔や青い夜明けを「みせる」ことは可能だろうか。そんなことをふと考えて、「見えない」というのがどういうことなのかを、「見える」ひとが理解することの、難しさを思った。ひととひととの遠さを思った。幼い頃にきっと多くの人が、帰り道や家の中を目を瞑って、友達や兄弟に手を引いてもらったり声をかけてもらったりして、歩いてみたことがあると思う。わたしはその遊びで、10歩以上を歩けたことがない。いつも見えない壁を想像して、いつも見えない段差を想像した。大丈夫だよと何回言われても、目の前に何もないことが分かりきっていても、怖くて歩けなかった。そのときわたしの前にあったのは、暗闇という壁だった。雨の音は、本当に美しいのだという。そこにあるものを浮き彫りにして、空間を存在させ、見えないものを見えるようにするから、美しいのだという。知るということは、美しいのだという。人は他者を理解できるか。わたしは今その問いに、できないと答える。わたしには、見えない人の苦しみも喜びも決して理解できず、見える人の苦しみも喜びも、また同様に理解できない。わたしがちゃんと理解できるのはわたしの苦しみと喜びだけで、自分の感覚で感じている世界だけだ。わたしの全部を、誰かがほどき、やさしくし、認めることは、きっと不可能だ。水の形や風の声さえろくに感じ取れていないのに、目に見えず耳にも聴こえない心の中の真実に、どうやって触れてみようというんだろう。風がからだを撫でるのと同じくらい触れてみてもみえない顔があって、雨が物質を叩くのと同じくらい語りあってもきこえない声がある。わたしが歌うだけであなたは心をふるわせ、あなたが笑うだけでわたしは泣き出してしまいそうになる。理解、その不可能があたえる孤独からわたしたちをすくうのは、それを可能にしようとする想いだけだ。愛することに際限なんてない。学ぶことに、知ることに、みえること、きこえること、感じることに、終わりはない。そのことを伝える声は、水に満ち風に震えていた。
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