だーあま

チェリーボーイズのだーあまのレビュー・感想・評価

チェリーボーイズ(2018年製作の映画)
1.8
『アメリカン・パイ』の序盤を鑑賞しながら、地味にテクニカルなことをしているなあと感心しながらも、他に似たような作品はないだろうかと考えて探してみたらこの作品に偶然出会ってしまった。
あまりにもダメダメな作品でびっくりした。個人的ワースト映画は『少林サッカー外伝』で一生涯揺るがないのだがこの作品はその次に並ぶくらい酷すぎる。
東京から田舎に帰ってきた自称バンドマンで冴えない童貞の主人公を林遣都が演じているのだが、林遣都をキャスティングするのってどうだろう…というのは一旦脇においておく。それくらいこの映画は突っ込みどころが多い。
この主人公、不快感がすごいのだ。いっつもつるんでいる三人組の中では常にマウント取って偉そうでなんでコイツなんかと友だちでいるの?というくらい腹立たしいのだが、地元のガキ大将に絡まれたときやカツアゲを目撃したときにはビビって友人たちの影に隠れている。友人たちも友人たちで、主人公が東京ではバンドを組んでいて東京では活躍しているという誰がどう見てもバレバレな嘘にしっかり騙されている。ちなみに登場人物の一人の前野朋哉が主人公に「ねえ、東京ってどんな感じなの?」と聞くなど、東京に対しての憧れがすごい。地方に住んでいる人物は「東京ってどんなところ?」とか「東京、いいなぁ」とか「はぁ…、俺も東京に行きたかったなぁ…」と言わなきゃいけない決まりでもあるのだろうか?この作品は山形を舞台にしているのだが、東京は華やかで楽しくて、その一方でその周縁に位置する地方は閉鎖的で停滞していて将来が無くて地方に残った人たちもマイルドヤンキーばかりでつまらない人たちばかりでみんな東京に憧れているという、あまりにも手垢にまみれた偏見に凝り固まった東京ー地方の構図を踏襲している。
地元でつるんでいた3人が集まり酒を飲んでいたら地元のガキ大将でいじめっ子のプーチンが出てきてバカにされる。その後、3人で道をトボトボと歩く、そして前野朋哉が「俺たちが童貞なのは……臆病者だからだよ!」みたいなことを言う。…まあ原因を抽象的に言うとそうかもしれないけどさ。やっぱり抽象的すぎじゃない?それで童貞を捨てようと考えた結果、地元のサセ子を攫ってレイプを計画するに至る。おい!倫理的にもアウトだけどさ、理屈が飛びすぎてるんだって!童貞を捨てたい→レイプするに至るのは飛躍しすぎ。セックス相手を見つけるための方法なんて色々あるし、そういう奮闘する過程を『アメリカン・パイ』みたいに面白おかしく描写するのかと思ったらそうではないらしい。それでも最終的に困ったら風俗に行けばいいじゃないか。北方謙三大先生も言ってたろ!このあたりでこの作品に対するヤダ味や疑問がMAXになってFilmarksのレビューを見る。…そうか、これはそういう作品なのか…。
そもそもいじめっ子に童貞だとバカにされる→童貞を捨てたいという流れも少しおかしい。いじめっ子にバカにされる→いじめっ子にリベンジしよう!が自然だしエンタメとしてもベターな気がするけど、どうやらこの作品ではそうではないらしい。
知らなかったのだがウィキペディアによるとこの作品は漫画原作で、作者は新潟出身で「退屈な郊外」を舞台とした鬱屈としたとした若者を登場させる作品をよく作るらしい。どうりで演技が妙に戯画化されていたのだなと納得した。だから新潟の隣で気候風土も近い山形を舞台にしたのか。この映画では「退屈な郊外」と鬱々とした若者がレイプをするというのをどうしても描きたかったようだ。でも3人が集団レイプをするという行為に至るまでの理屈や動機づけがどうしても足りない。鬱屈した若い男の性欲ゆえ…では納得させられない。というかこの登場人物25歳だし、『アメリカン・パイ』『スーパーバッド』などの作品で見られる性欲ゆえの暴走がこの作品では全然面白くもないし可愛くもない。25歳は世の中の仕組みを知って自分の10年後20年後の姿がおぼろげに見えてくる年齢で、「退屈な郊外」や閉塞的な雰囲気を描くためには年齢設定を25歳にしなきゃいけなかったのかなと予想。
そして池田エライザ演じるサセ子を三人で襲った後、レイプをしようとするが池田エライザに返り討ちにあう。土下座して謝罪する三人。一人が「コイツ!親が死んだばかりなんです!だからコイツにクンニさせてやってください!!」とエライザに懇願する。もう1人の前野朋哉も「お願いします!」と土下座する。なんかよくわからないけれど(考えるのも疲れた)池田エライザは林遣都にクンニを許可する。この池田エライザ、劇中ではひたすら優しいというか男性にとって、作り手にとって都合のいい性格である。
そうして車内でクンニをする林遣都。この車内での描写が短い。エロいシーンを見たいという下心を一切持っていないなんてことは言わないが、あまりにも短すぎではないか?作品のクライマックスシーンなんだから、直接的なシーンは撮れないにしても、それならそれでもう少し工夫するなり努力したほうがいい。事務所が怖かったのか分からないが気骨がないと思う。池田エライザはこんな役引き受けてくれたんだから、多分ある程度の要求は呑んでくれるんじゃないか?そしてエライザはレイプ未遂をした林に「どうする?入れる?」と言う。頭がおかしい。林は寸前で断る。エライザに受け入れられただけで十分と思ったのかな。そして車内から出てきた林は男として成長して自信を持つようになり、他の2人は林を祝福する。いや成長していないから。しかもクンニ出来たのも、挿入を許可してもらえたのも憐れみだから。断じて勝ち取ったものではないから。その様子を遠巻きに見るエライザは「馬鹿じゃん。気持ち悪い」とつぶやく。この池田エライザの「馬鹿じゃん。気持ち悪い」という台詞は、「ホント男って。バカ」と呆れ混じりの女性に言わせる類の台詞と似ていて、脚本や監督は男に対する呆れた感情と女性には理解できない男性のホモソーシャルで閉鎖的なノリを演出したかったんじゃないかな。男性の脚本家や監督が、作中で男性の輪を傍から眺めている女性に「ホント男ってバカよね」って言わせる演出って、男尊的な価値観がねじ曲がった形で表出しているように個人的に思えるし、単純に演出自体が使い古されまくって薄ら寒いんだよなぁ。
そして最後、また序盤と同じようにカツアゲ場面を目撃する。この作品は序盤の高校生による中学生へのカツアゲと終盤の中学生による小学生へのカツアゲによるブックエンド方式になっている。そして池田エライザにクンニしたことで成長した林遣都は中学生にカツアゲをやめるよう注意する。その林の顔は爽やかな顔だった…、という終わり方。なぜだかわからないが序盤と終盤で微妙にスケールダウンしているゆえカタルシスもないし、そもそも25歳男性が高校生にカツアゲ注意するのは障害のハードルとしては弱い。カツアゲを目撃してもおそらく注意出来ない私が言うのはおこがましいが。しかもこちら側は成人男性3人だし。序盤で前野朋哉が「僕たちは臆病者だから童貞なんだよ!」と分かりやすく主人公たちの問題点を提示してくれたが、カツアゲを注意できたから臆病者を克服できたのか?例えば、ドゥウェイン・ジョンソンみたいな屈強な男がカツアゲを目撃したとしても、カツアゲしている人間をボコボコにできるとしても助けるかどうかはまた別の問題だ。勇気だけでなく、その他にも他者に対する共感性や正義感が試される。しかも林が注意した後は描かれていない。注意された中学生はすごすごと引き下がったのだろうか?甘すぎる。自己陶酔しながら終わらせるんじゃないよ。話は逸れて、邦画あるあるなのだが、殻を破った主人公はそのあとの障害をいともたやすく乗り越える。面白い作品は殻を破った瞬間よりも、殻を破った後の主人公がどう困難を解決するかを面白おかしく描く。戦隊ヒーローもので例えるとつまらない邦画は変身する前のところを長々と描写する。また、主人公を悶々とさせることによって観客に対して主人公の悩みや悩みの大きさが伝わると思っているらしい。そして変身する瞬間をドラマチックに描く。そして変身したら即問題が解決する。臆病者から成長した姿を描きたいのであれば、いじめっ子のプーチンに反撃する場面でブックエンド方式にするのが妥当だと思う。中学生に対して注意する終わり方にしても、注意した後「何だてめえ!」とかひと悶着あってから解決してそれで終わりでいいんじゃないか?
この作品に出ている池田エライザはクソみたいな周りの中でしぶとく生きていて、『マル秘色情めす市場』の芹明香みたいで良かった。ラッパーの般若も本職ではないにもかかわらず絵面がカッコよくてこの人は役者向きなのだなと思った。

学生映画みたいだなと感じながら鑑賞していた。東京ー地方という構図や閉鎖的な地方都市というのは邦画問わず日本のエンタメあるあるだけど、ホモソーシャルなノリ(そしてそれはだいたい薄ら寒い)や、なにより、作者を投影させた内向的で鬱屈とした孤独で往々にして露悪的に描かれる男性が女性の愛を手に入れようとするが挫折して失敗しその代わりに成長を手に入れるという話のパターンはもううんざりです。どういう言葉を与えればいいのかわからないけれど、「作者の疑似失恋モノ」でも呼べばいいのだろうか。初恋の成就はおろか初恋の失恋すらしていない作者が、自分を投影した孤独な主人公に、ヒロインの口を介して主人公の問題点を指摘させて、初恋の失恋をさせその引き換えに成長を得るということを通して、作者自身が独りよがりで内向的なあのころの自分から一皮剥けましたとでもいいたいのだろうか?観客に対してナルシスティックな自嘲混じりに「こんな人間になるなよ」とでも言いたいのだろうか?それを映画にして人様に見てもらおうと思うこと自体独りよがりな気がするのだけれど。お酒の席で年配の男性から説教されつつ「俺も昔はお前みたいな頃があったんだよ」と理解者のようなふりをしつつマウントを取られているような感覚に陥る。ただ楽しみたいから映画を見ているだけなのに、劇場版『ドラクエ』みたいなマッチョイズム的お説教をかまされているような気分だ。クンニをしたところで、というかセックスをしたところで人間はそんな簡単に成長しない。大事なのは底に至るまでの過程じゃないのか?女性からの愛を獲得するまでの過程で異性に対する思いやりや理解を学び、男同士の友情の大切さを確認していたのが『アメリカン・パイ』や『スーパーバッド』だった。一方、「作者の疑似失恋モノ」の学生映画作品は決まってラストシーンでは一見主人公が成長しているように見えてるけれど、実のところほとんど成長していない。全く成長していないとまでは言わないが、要求する水準には到達していない。少ししか成長していないのにも関わらずまるですごい成長したかのように描いている。作り手も勘違いしている。自分をさらけ出したところで、失恋をしたところで人間は成長しない。更に付け加えると、前述の部分と重なるが、クンニしたらどこがどうなってカツアゲしている中学生に注意できるようになるのだろうか?そしてそれは成長と言えるのか?自分を投影した主人公に要求する成長の水準やハードルを下げに下げている。25歳だぞ。中学生や高校生ではない、立派な成人男性なんだから。性体験を25歳でしたのが遅いとか早いとかいう話ではない。どうやっても思春期ゆえのリピドーの発露とか「青春」などという言葉でもって、主人公の僅かな成長や劇中での呆れた言動を可愛く好意的に見えるようにごまかすなんて到底できない年齢だ。内向的だった人間が自分の殻を破ってなぜか集団レイプに挑戦して返り討ちにあって土下座して謝ったらお情けでクンニさせてもらった話を、まるでそれまでハイハイしていた赤ん坊が初めて立って歩いたかのように人生における大きな成長として過剰に感動げに演出して描くのはおかしいということだ。内向的な自分の殻を破ろうとするというのは(実際は破ったというよりは極めて自分勝手に性欲のまま暴れただけだが。しかもそれも失敗した)、主人公当人にとってはすごい大きな成長かもしれないが。心が動かされない。空回りする姿も面白おかしく可愛く見ることが出来ない。それで小学生をカツアゲしている中学生に注意する。それを自己陶酔した感じに良きことげに描写している。どの口が言っているんだ?いじめっ子に対する鬱屈とした感情を、いじめっ子と対峙する方向にぶつけるのではなく、バンド活動や音楽活動にぶつけて昇華させるわけでもなく、どういう訳かわからないが地元のサセ子をレイプするという方向にぶつけようとしていたくせに。棚に上げてよくそんなこと言えるな。
漫画未読なので分からないがおそらく原作者は鬱屈とした感情を漫画内でモノローグなどでおそらく表現しているし、その狂気や誇大妄想の表出として集団レイプを描こうとしていたのかもしれないが、映像だと伝わらなかったしレイプに至るロジックも上手くつながらなかった。漫画では許容されるデフォルメもなぜかそのまま実写に持ってきたせいで違和感があった。
『タクシードライバー』的な方向へ舵を切るのか『アメリカン・パイ』や『スーパーバッド』みたいな方向へ行きたいのか中途半端な作品だった。この作品は大便です。いや、大便にすらなれなかった下痢便です。そんな下痢便に青春という名のリボンをかわいく巻いてデコレーションして可愛げに体裁を整えてみたけれど、どうやらごまかせなかったみたいです。そんな作品です。