「ツィゴイネルワイゼン」「赤目四十八瀧心中未遂」の奇譚魂(スピリッツ)が21世紀の今、中国長江の悠久の流れに乗って蘇る
楊超(ヤン・チャオ)
「長江 愛の詩」
楊超と書いてヤン・チャオと読む映画作家の「長江 愛の詩」はそのタイトルが想起させるように(遡行)が軸となっています。
その(遡行)の手引きとなるのは邦題に冠された(詩)であるのは言うまでもありません。(原題は「長江図」です)
それは映画の序盤でチン・ハオ演じる主人公ガオが機関室で見つける、さもありなん、という感じの古めかしい手書きの詩集です。
西暦が具体的にテロップされているわけではありませんが、一筋の光明も射しこまぬような寂れた河口の船着場と全身油まみれの労務者たちの姿から、市場経済の発展と共に必然化する現代中国の格差の歪みが、ありありと感じとれます。
「長江 愛の詩」の魅力は、そんな被写体となる風景や人物がいかにも克明に画面に映っているにもかかわらず、全ての存在そのものが希薄で、神話を思わせる簡素な影で彩られたまま私たちに寡黙に迫ってくる点にあります。
何故そのような事が起こり得るのか?
それは「長江 愛の詩」が現代中国が持つ殺伐とした現実感を避け、歴史の諸相や時代をこえた揺蕩(たゆた)う奇譚の範疇に位置しているからに他なりません。
曇空も、広大な川もどこまでも広がっているのに、至るところで(現し世)とはほど遠い幽閉感がみなぎっているのはその為です。
その中にあって、主人公ガオが長江を遡行する先々で再会と別れを繰り返すアン・ルー(シン・ジーレイ)という女性が、視線の動きやふとした身振りによって、無言の存在感や艶というべきものをスクリーンの隅々にまで行き渡らせているのがとりわけ素晴らしい。
ガオが上海の夜空に炸裂する花火の灯のもと、初めて彼女を見た時はくたびれた中年女性のようだったのに、長江を遡るたびに生々しい美しさを帯びて若返っていきます。
あたかも鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」の大谷直子や、あるいは荒戸源次郎「赤目四十八瀧心中未遂」の寺島しのぶ、古くは溝口健二「雨月物語」の京マチ子の存在のように、実在する人間か、幽霊か幻影か定かでない生死の不在によって、心の均衡が乱れかねない私たちに、その存在を異常なものとして映していないところが素晴らしいのです。
「長江 愛の詩」におけるもうひとつの素晴らしい場面に、映画がいよいよ佳境に入る予見を告げるように出現する三峡ダムがあります。
中国が誇りにする名高い巨大ダムですが、ここでは中国経済発展の象徴ではなく、それまでテロップに白く浮きあがる詩を私たちの視界から奪い、口調から画調に変わるように、ガオによる父母への追慕を一瞬で断ち切るメタファーとして堂々とそびえ立ちます。
とはいえ、それが今日の中国の象徴的な縮図などと、はしたない解釈だけは慎むべき。
現代社会の反映とか縮図という印象を残す程度なら、あらかじめ周到に敷いておいた伏線をじわりと利かせておけば充分なのですから。
「長江 愛の詩」が21世紀にふさわしい新しい映画かどうかを問うつもりはありません。
しかし画面の隅々にまで目を走らせれば走らせるほど、社会的背景や文化的制度から遠く離れていくように、光の明滅からなる様々な記号たちと戯れる細部に満ちています。
そんな終わりに回収されがたいこの奇譚は、中国のある時代を、ヨウスコウカワイルカの化身に乗せて(彼岸)へと葬る覚悟のように不気味に私たちの瞳を響かせてくるのです。