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樺太 1945年 夏 氷雪の門のodyssのレビュー・感想・評価

樺太 1945年 夏 氷雪の門(1974年製作の映画)
3.5
【ソ連の犯罪行為(その2)――戦争は8月15日には終わらなかった】

第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)は1945年8月15日に終わった、そう思っている日本人は多いだろう。しかし、実はそうではなかった。

日露戦争以降日本の領土になっていた樺太(サハリン)の南半分。そこには多数の日本人が入植していたが、日本が連合国側のポツダム宣言を受け入れて終戦が成立した8月15日以降もソ連軍は戦闘行為をやめようとしなかった。そして樺太の南半分に戦車や飛行機で攻撃を仕掛けてきた。それによって多数の民間人が犠牲になったのである。この映画は、そうしたソ連の無法者ぶりや残酷さを余すところなく描いている。

犠牲となった日本人の象徴的存在が、電話交換手だった9人の乙女である。ケータイ電話もメールもなかった当時、電話は軍事的にも日常生活的にも情報を瞬時に伝える手段として重要であった。また現在のように自動的に遠方の相手につながる機能が開発されていなかったので、いったん電話交換局を呼び出してそこから目的の相手につないでもらうシステムになっていた。したがって電話交換局の仕事はきわめて重要であるが、若い男性がほとんど兵隊に取られていた大戦期、その仕事は若い女性に委ねられていたのである。

彼女たちは樺太の真岡町の郵便局に設置されていた電話交換所に勤務していた。そして8月15日以降もソ連軍の攻撃が続くなか、すでに避難勧告が出ているにも関わらず、仕事の重要性を自覚していた彼女たちは最後の最後まで勤務を続け、ソ連軍により電話網が切断され、またソ連兵がまもなく踏み込んでくるだろう時点で毒をあおいで全員が命を断つのである。

この事実は、現在、日本最北端の町である稚内の、樺太を遠く望む公園に設けられた「乙女たちの碑」に刻み込まれている。またその近くには、かつて樺太の南半分が日本領だったことを記念する氷雪の門が立っている。北海道旅行で稚内を訪れた人は、記憶にあるだろう。私も以前、稚内を訪れた際に見ているが、やはり映画で物語を知るのは碑文を読むのとは別格の体験だと言える。

そしてこの映画には一つの(恥ずべき)エピソードがある。この映画は歴史的事実に基づいて1974年に制作された。ところが全国公開直前に当時のソ連のモスクワ放送が「ソ連に対して非友好的な映画」という批判を行った。そのため、本来は東宝系の映画館で上映されるはずが、一部の独立系映画館で上映されたにとどまった。

2008年、中国人監督による映画『靖国』が一部右翼の圧力で上映中止になりかけた際には「言論の自由を守れ」という声が日本でかなり起こったが、不思議なことにこの『氷雪の門』についてはそうではなかったらしい。日本の映画人は言論の自由を守る気概に欠けていたのだろう。そういう日本映画人の恥ずべき歴史を示す作品という意味でも、見逃せない映画なのである。
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