イホウジン

千と千尋の神隠しのイホウジンのレビュー・感想・評価

千と千尋の神隠し(2001年製作の映画)
4.1
“大人になる”とは“愛すべき存在が生まれる”ということ

今作が面白いのは、話が進むにつれて徐々に「両親を救う」目的意識が次第に薄れて「ハクを救う」方向にシフトしていくことだ。つまり、主人公が救おうとする存在が劇中で完全に変わってしまうのである。好意的に受け取ればそれは千尋が精神的な自立を達成したということになるが、その一方で親の存在を忘れてしまったという解釈も可能だ。終盤に観客の中に起こる妙な孤独感は、きっと千尋以上に私たちが記憶している「親を救う」という今作のテーマの一つが邪魔をしてくるからであろう。
さらにハクを助けるために向かう先が「復路も予備の切符もない片道電車」というのも、色々考えさせられる。これが“死”のメタファーであることは物事の分別がつく歳頃になれば大体察せることだし、だとすると千尋もそれを知っていた上で敢えて乗車したと言える。言ってしまえば、例えば脱出不可能な洋館に閉じ込められるようなホラー映画の一要素と紙一重なものだ。他者を救うことを極端に純化すれば「自己犠牲」に帰着することを実感させられる。
そしてそのファクターは他者への“愛”ということも今作で言及される。あからさまな恋愛描写が無いにも関わらず今作の底流に“ラブストーリー”が存在するのは、一般的な恋愛映画よりも遥かにメタ的な表現を通してそれを表象しているからであろう。観客を感情移入させるためのラブストーリーから、映画の精神に溶け込ませたラブストーリーという形は宮崎映画のひとつの到達点と言ってもいいだろう。特に今作における“キス”の描写は、ジブリの他の作品以上に間接的だしもはや隠喩的でもある。それゆえ今作の主軸は千尋が「愛を知る」物語となり、従来の枠組みにとらわれない多様なジャンルが入り乱れた映画になるのだろう。

また、今作の興行的な成功と世界的な評価は必然的なものだったと言えよう。そしてその成功の背景には「もののけ姫」の影が見え隠れする。
架空の生物が重要な登場人物として出てくるという点で両作は共通している。しかし今作で際立つのは、彼らにある種の「キャラ化」が施されていることだろう。振り返ってみると、もののけ姫のモノノケ達はどちらかと言うと畏れ多い存在として描かれていた。人間に対して道理を超えた存在感と威圧をかけてくるという点で、その姿かたちは非常に“リアル”だ。しかし今作に出てくる“神”達は総じて可愛らしい。彼らは人間にとってナマハゲのような畏れ多い存在というよりは、ミルク様のような親しみをもった存在として描かれる。湯婆婆だって最初こそ少し怖いが、感情表現の豊かさから結局は憎めない存在になる。この神の「キャラ化」は、結果的に日本固有の文脈を超えたごく単純な「キャラ」として登場人物が認識されることとなった。世界観も相まって、いかにも海外の人達が好きそうな“日本”のイメージを意図的に作り上げたようにも感じられる。そういう意味では今作はとても戦略的な映画でもある。そういう面に気づいてしまうとどうしても映画への熱が冷めてしまう。
だからストーリーもまた良くも悪くも単純だ。「もののけ姫」のようなメタ的な問いかけへの言及を避けて、あくまで千尋の一人称的な視点から見た世界の変化を綴ったことで、映画自体はごくミニマルなものとなっている。故に観客の共感を生みやすい映画でもある。中盤のおにぎりのパートはその代表例と言ってもいいだろう。このように敢えて分かりやすいストーリーを組んだことは、よく言えば万人の支持を集めた、悪く言えば「万人受け」を気にした映画と考えることができる。

しかしだからこそ、エンタメ要素が強いながらも飽きがこないスルメ映画にもなっているのだろう。
あと言わずもがな、映像美は完璧だ。カメラワークという点では普通だが、情景がとにかく見とれるほどに綺麗だ。
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