arch

FAKE ディレクターズ・カット版のarchのレビュー・感想・評価

4.6
2014年頃、高校生だった自分がこのゴーストライター事件をニコニコのMADなんかで面白おかしく消費していたことを思い出した。

本作はゴーストライター事件後の佐村河内守に密着したドキュメンタリーであり、当時ほとんどメディアに流れなかった佐村河内守の視点から事件の真相を追う作品になっている。
簡潔に言えば「ゴーストライター問題」は大まかには事実、ただそれに付随していた「聴覚障害者のフリをしていた」という新垣氏の主張は完全に嘘だった。
全体的には佐村河内守の側に立ち、メディアや世間、特にバラエティに進出して浮かれ気味だった新垣を観るという構図で簡単に肩を持てる作りでありながら、事態の複雑さ、つまり嘘とホントで綺麗に二分し難い実態を徐々に浮き彫りにしていくのが面白い。
森達也らしいドキュメンタリーの立ち位置とでもいうのだろうか。観客は簡単に偏れる作りなんだけど、視座は凄くフラットで、解答を出そうという意志がないのだ。それは後半に行くに連れて感じる部分だった。

まず前半はテレビを観る佐村河内守の構図は頻発する。自分についての報道もそうだが、新垣がバラエティで活躍している様子を観る。観客はその新垣さんが「何故告発したのか」の動機をその映像に見つけるようであり、異様な光景を佐村河内守の視点を介して見ていく。
また佐村河内守の妻との関係性にフォーカスされていくのが本作の特徴だ。それは被害者的なニュアンスは強めていくし、2人の関係の中で当然みえてくる聴覚障害者だという事実も観客に「佐村河内守は被害者だった」と衝撃の事実を受容させていく。
だんだんとドキュメンタリーが進んでいくと佐村河内守と新垣の関係性、つまり「どう作曲していたのか」に視点が移っていくと、完全な被害者って訳でもないことがわかる。家に楽器もなく楽譜も書かない。あるのは指示書だけで、音を作るのは新垣だった。
オピニオン誌の問いかけが印象深く、佐村河内守の説明責任を暴くようだったし、「一般の人が作曲していると理解できる証拠を見せてくれ」という本質的な問を誰もしてこなかったのだと気付かされた。
ここで、本作の主題にあったFAKEはシフトする。「聴覚障害者じゃないという新垣のFAKE」から「佐村河内守は作曲していたというFAKE」に。そしてドキュメンタリーは急速に収束するかのように佐村河内守の「作曲」は始まる。
事件の焦点を今改めて合わせるようとする試みはドキュメンタリーとして非常に誠実で、シネマヴェリテとしても「じゃあ作曲しろよ」という被写体への働きかけは見事。弁明のチャンスを与えることに、"耳を傾ける"というドキュメンタリーの本懐を超えた「森達也の作品」を感じた。

音楽の煽情的な力を使って畳みながらも、その"誘導"にすら自覚的で、観客や造り手が陥る「何か真実を把握できた気がする」という感覚をちゃんと突いて終わる。見事なドキュメンタリーだった。
arch

arch