河

欲望の河のレビュー・感想・評価

欲望(1966年製作の映画)
4.6
暗い雰囲気の中管理された労働者のような風貌の主人公が車を盗み走り出す。橋の下を潜るとその雰囲気は消えて主人公が売れっ子の写真家へと変貌している。そして、そのスタジオに入ると鏡に映ったモデルが現れ、カメラが動きによって鏡の中の世界の人間が本物の人間へと変わったように見える。そして、労働者だったはずの主人公は次は権力側としてモデルを従わせる。
次の撮影に向かっているはずの主人公は、骨董屋に向かっている。その前に主人公は電話で骨董屋の住所を聞かれており、主人公がその住所を聞いた男に切り替わっていることになる。そして、その骨董屋では相手にされない。公園へ向かうとまた写真家に戻っており、再度骨董屋に向かうと骨董屋のオーナーが若い女性に変わっていて映画のようにセリフを話し始める。そして公園で出会った女がなぜか住所を知っていて、家に招き入れる。黒いフィルターによって画面が白と黒の二つにわけられ、カメラが移動するとそのフィルター同士が重なり黒のグラデーションができる。2人はそのより黒い方向へ向かうように階段を登り、その先で主人公の願望が叶う。そこで主人公は自分に妻がいたか、子供がいたか、そもそも女がいたかをもわからなくなっている。そして、女性に対する態度含めて主人公の行動は何度も矛盾する。そして登場人物達もシーンが切り替わると違う人になったかのようになる。ショットの断絶、鏡やカメラワークをきっかけに主人公の連続性が何度も失われる。複数の人物が主人公の姿で連続させられているように感じる。

主人公自身はそれに無自覚のように見えるが、公園で撮った写真の細部を見て銃があること、死体があることをパラノイア的に発見する。そして死体が実際に存在することを確認したことによってそのパラノイアに確証を持つ。主人公は既に分裂しているため、それは自身の分裂に気づくことを意味する。そして、その主人公の断絶が深刻になる。その主人公はライブに駆け込んだと思えば静かな観客の一部となり、熱狂的にギターを拾って逃げたかと思えばそれを捨てる。

朝になると、公園にあったはずの死体は消えていて、そこに冒頭の顔を白く塗った若者たちが現れる。その若者たちがテニスを始めるが、そのボールとラケットは見えない。ただ、主人公の目とカメラはそのボールを追う。そして主人公が飛んできたボールを握って投げ返した後、テニスの音が聴こえてくるようになる。そして、俯瞰で主人公が芝生に一人で立つ姿が映され、主人公がそのまま消える。主人公の消えた後の芝生のショットはオープニングと同じものになっていて、オープニングはその芝生の上に表示された透明な文字越しに後ろの層の映像が見えるようになっている。
それによって、映画を通してその芝生の世界とその裏側という形で二重に世界が存在しているように感じられる。片側には死体がありもう片側にはない、テニスラケットとボールも同様であり、主人公はその二つの世界の間で二重に存在していたように見える。

冒頭の画家が描いているキュビスムの絵画、そして「最初は混沌としているが、やがて形をなしてくる」というセリフがほとんどこの映画を表しているように思う。断絶したようで部分的な連続性を見出すこともできるような映画。そのため、複数の写真を見比べて注視していくことでそこからパラノイア的な物語を見出す主人公の姿は、この映画から何かを見出そうとする観客の姿と重ね合されるのかもしれない。

三部作、特に『太陽はひとりぼっち』そして『赤い砂漠』と同様に原子力含めた社会的不安が背景として存在し、その不安よってパラノイアに陥る、自己が分裂してしまっているように感じられる。映画を通してシーンを跨いでも変わらないのは白塗りの若者たちとモデル志望の女性たちであり、両者とも狂騒的な姿として、それぞれ俯いて喋らない労働者達、従わされるモデル達に対して、躁鬱として対比されている。それを考えれば、その二つの対極的な姿が引き裂かれた二つの自己の行き着く先なのかもしれない。躁的な人々に残されたのは享楽的な生活、消費のみであり、鬱的な人々に残されたのは労働のみである。どちらにおいても感情や人間性は破壊されている。

骨董屋でルネサンス以前の絵画や彫刻が印象的に映される中で、骨董屋のオーナーの若い女性はそれに辟易して安売りし骨董のない国にいくことを望む。主人公はその中でプロペラを選ぶ。それによって近代とそれ以前との決定的な断絶が現されているように感じる。そして、ラストに出てくるロンのいる古い屋敷は酒や薬によってその絵画や彫刻と共に荒れ果てている。

かなり特殊な形式の映画だけど、パラノイア的に分裂してしまうこと、それによって自己を一貫したもの、連続したものとして捉えることができなることを映画自体、そして写真を見つめる主人公自体が体現しているという点で、これ以上ない形式のように感じた。そして、さらに映画と主人公はそれと同時に、その状況から自身に形を見出すためには細部を見て部分部分、例えば脚を捉えることから始める必要があるということも表している。観客はこの映画を通して主人公と同様に自身の分裂に気づき、そしてこの映画の細部を見て部分を捉えようとすることでそこから回復する必要があるのかもしれない。あと透明のテニスのシーンが本当に良い。

この不安によって引き裂かれ、享楽的、狂騒的になっていく作品の流れはパゾリーニとかなり近いように感じる。

画家が点描画のような絵に対して、これはまだ未完で形が見えていないと言っていたけど、これでこの監督の次の作品が点描画みたいなものだったらすごく良いなと思う。

かなり良かったので見終わった手でそのまま『悪魔の涎』買った。
河