このレビューはネタバレを含みます
ピ カ チ ュ ウ が 可 愛 い ! !
んなこた解ってるって?
俺だって解ってるつもりでいたよ。
予告編、ダンス動画……そんなもんでな。
理解したつもりでいた。
とんだバカヤローだ。
いいか、俺たちは、まるっきり、小指の爪の先程にだって、理解しちゃあいなかったのさ──
ンか"わ"い"い"ッ!!
いや、それどころじゃあないッ!
コイツぁ──
“尊い”ッ!!
伏せろッ、これはスタンド攻撃だァーーーーッ!!
はい、というわけでね。
この「名探偵ピカチュウ」は、「俺たち、架空の生き物ポケモンをリアリティたっぷり描くため、こんなに頑張ったんス」ってな映画では、断じてない。
むしろ、それはスタート地点。
「ポケモンが当たり前に共生する世界」すなわち、ポケモンが居ることが、まるで空気がそこにあるような大前提として処理される。
だからこその、その“先”!
ポケモンをパートナーにするって、どういうこと?
他者と、動物と関係を結ぶとは?
共に生きていくとは、どういうことなんだ?
そういった、「ポケモンを描いたさらに先」を、この映画は見据えているのだ。
そして、その象徴として機能する主人公とピカチュウとの物語の描き方。
これが、実に秀逸なんである。
繰り返すが、今作のピカチュウは「可愛い」「ギャンかわ」「激萌え」。
ありとあらゆる仕草、表情、眼差しが、徹頭徹尾かわいいのである。
小さな子犬がパタパタと必死に走って、飼い主の元へ向かう映像とか、可愛さが極まって泣けるでしょ?それ!
俺はピカチュウの姿に、ジワッときた。
そして、一から絆を育むことになる主人公ティムと、ピカチュウ。
心に傷を負った少年と、記憶を失い技さえ出せないポケモンは、共に、消えた探偵=主人公の父の行方を追うのだ。
ピカチュウは主人公父の相棒であり、彼と主人公は、共通の目的で動くなか、次第に心を通わせていく。
互いに歩み寄り、そして芽生える友情。
ティムがピカチュウに父との確執についての悔恨を漏らし、ピカチュウがそれを励ます場面で、俺は涙ぐんだ。
バディものとしての鉄板。
弱さを補い合う二人、泣ける。
そしてラスト。
ここでついに、ピカチュウに宿っていたのは、他ならぬティムの父の精神だったことが明かされる。
というか、その前のクライマックスの戦闘の最中、観客は、うっすらと、その真実に感づくことになる。
今や電撃技さえ放てるピカチュウ。
彼は今や、友達であり、仕事仲間であり、なにより──父であるのだ。
まさにヒーロー。
果たして息子のアドバイスを胸に、彼は悪に打ち勝つ。
ここで、我々は否応なく、これまでの二人の旅路を回想し、それらが父子の交流にほかならなかったことを認めるのである。
それまでの何気ないやり取り、ジョーク、いったんは落ち着いた感動の一時が、再び新たな意味合いを帯びて殴りかかってくるのだ。
すなわち、感動のつるべ打ち。
頑張るピカチュウがシンプルに可愛い。
相棒の危機に駆けつける健気なピカチュウが可愛い。
記憶を失っているのに、それでも息子を救おうと真っ直ぐに突っ走るピカチュウが──可愛い。
“可愛い”!!
その一つの概念に、けれど多重構造的な意味・価値を付与して放ってくる。
そして、それは転じて、「共に生きることとは何か」の表明にもなっているのだ。
こんなん、ズルいやん。
俺は為す術なくギャン泣きした。
なんという作りの巧さ!
完全敗北、白旗だ。
本当、おみそれしました!
正直、映画として見れば、粗も多いにあるのだ。
作中で時間経過が殆ど無いにも関わらず急速に深化する関係、距離感不明な大移動、渡辺謙の存在意義……エトセトラエトセトラ
でも、そんなん、どうでもいい。
「ポケモンの住む世界を描くとは、どういうことなんだ?」という問題に、ここまで踏み込んで語ってみせた、その姿勢に敬意を表したい。
製作陣は、ポケモンという巨大なコンテンツを預かりながら、決して尻込みしなかったのだ。
本当に、心の底から素晴らしかった。
ありがとうポケモン!
そして、これからも、よろしく!!