ブタブタ

志乃ちゃんは自分の名前が言えないのブタブタのレビュー・感想・評価

3.5

「悪いのは全部 君だと思ってた
狂っているのは あんたなんだって
つぶやかれても ぼんやりと空を
眺めまわしては 聞こえてないふり
世界の終わりは そこで待ってると
思い出したよに 君は笑い出す
赤みのかかった 月が昇るとき
それで最後だと 僕は聞かされる」
『世界の終わり』
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
作詞・チバユウスケ

志乃が加代と橋の上でこの『世界の終わり』を唄ってる開始50分辺りが志乃にとって一番幸福な時間であとは正に『世界の終わり』の如き事態となる。
〈菊池〉のせいで。

志乃と加代のユニット〈しのかよ〉の路上ライブで何と南沙良さんの唄うTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの『世界の終わり』が聴ける。
今や売れっ子の南沙良✖️蒔田彩珠のシスターフッド映画。

とにかくもう〈菊池〉というキャラクターが最高(最悪)である。
よく『聲の形』との比較、評される作品。
しかし『聲の形』の「加害者の反省と贖罪」
と比べると其れが一切ない。(一応菊池が謝るシーンはあるが実質的に「俺のポジションてそっち」だの要は自分を救って欲しいと志乃に依存、サービス、ボランティアを求めており全く謝罪になってない。そして志乃はぶちギレる)
菊池は原作ではいつもの押見修造漫画主人公に近いキャラクターであり、それ故主役では無いので主人公補正その他の救いがない。
冒頭近くの入学式🌸からのクラスでの自己紹介シーン、吃音でうまく喋れない志乃が公開処刑さながらの目に合う場面で志乃を笑ったり揶揄したりからかうのは原作ではあくまでも「個々別の顔の見えないクラス全体、即ちモブ」であり志乃が受ける・感じる〈悪意〉が原作では〈世界全体〉からであるのに対して映画版ではこの菊池1人が一手にその役を引き受けている。
菊池は自己紹介で「趣味はセックス」等と発言しクラスをドン引きさせたり此処で菊池というキャラクターのもつ〈悪意なき悪意〉クラスの異物として志乃とは広義で〈同種〉でありながら志乃にとってはマイナスの存在でしかない事がハッキリと提示される。
そして志乃のクラス担任教師が更にまた最高(最悪)である。
原作では明らかに無気力な教師で〈問題生徒〉
である志乃を初めから厄介者扱いしかしない。
しかし映画版では此方も可也改変されており志乃に対して一応は教師として対応しようとしているのが余計に厄介である。
菊池の「趣味はセックス」発言にも何ら対処も指導もせず苦笑いしてスルーするだけ。
この時の教師の心情を察すれば「このクラスはハズレだ」であろう。

夏休み、志乃と加代〈しのかよ〉の路上ライブ。
志乃にとっては生まれて初めての〈楽しい夏休み〉でありこの時が永遠に続けばと思っていたのであろう(見てるこっちも)
しかしそこに現れ全てを破壊する菊池(笑)
菊池は中学時代虐められており、このクラスでも高校デビュー失敗から早くも村八分にされて志乃と加代に助けを求める。
この作品の時代設定は90年半ば辺りで現在と違い〈病気や様々な症状〉に対して(更に)理解がない世界に設定されている。
菊池は単に「落ち着きがない」子供として処理されて来たのだろうし、恐らく菊池は志乃の吃音と同じく自分の意思ではどうにもならない『ケーキの切れない非行少年たち』にある様な何かの精神疾患なのではないだろうか。
(だからといって其れが全く免罪符にはならない所がこの作品の凄いとこ)
菊池のユニット加入により加代との二人だけの、漸く志乃が手に入れた〈友達〉〈居場所〉は消滅し再び孤独になる志乃。
この志乃を何とかしたいと「この腐った魚の目野郎!(意訳)」等と叱咤するも「いやお前さえいなければ全てうまく行ってたのでは…」と菊池に対する印象は決して好転しない。
クライマックスにおいても菊池は〈ウザい奴〉から単なる〈傍観者〉にキャラクターとしても降格し、志乃・加代の二人も結末に至る迄菊池を顧みる事はない。
志乃・加代の二人には新しい世界が開ける事が示唆されるも菊池に関しては又ゲロを吐いてたうら寂しい校舎裏へと「振り出しに戻る」という結末でここまで徹底して菊池というキャラクターを救わない本作は見てて溜飲が下がる。

余談
菊池みたいなお調子者キャラクターって割と漫画・アニメにはよくいる。
しかし大抵、クールなイケメンと常にセットで行動してて二人ともモッテモテキャラってパターンが多い。
(菊池よ…( ᵕ ᵕ̩̩ ))
ブタブタ

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