ナリア

未来のミライのナリアのレビュー・感想・評価

未来のミライ(2018年製作の映画)
4.8
「え?なんで?」
劇場を出て映画に誘ってくれた友人と二人で呟いた
最初に断っておくが、もしかしたら僕たちは皆がみた作品とは違う作品を観てしまったのかもかもしれない
それくらいに前評判とのギャップがありすぎた
普通に、いやそれ以上に素晴らしい作品だった
「え?なんで?なんで平均点3.1!?あり得ない!」

確かに、本作も昨今の細田作品にみられるように、メインターゲットは“子ども”のように思える。
いや、実際そうなのだ。そう“子ども”を対象にしている点にこそ本作の価値はある

なにしろ、細田が“選ばれない子ども”を描いたのだから
僕も後から気づいたけど、ポースターから明らかに違う
今までは、主人公を仁王立ちに構図を三角形でまとめてきていたのに、何故今更こんな構図なのだろうか(入道雲だけブレてない)
たぶん細田のファンなら気づくと思うけど、これデジモン無印21話の“選ばれし子どもたち”である太一とヒカリ(くんちゃんの命名シーンの“ひかり”は恐らく新幹線じゃない。あの時家の中で“選ばれし子ども”だった赤ちゃんにヒカリの姿を無意識下で重ねてとっさに発した名前だと思われ)の別れの構図と全てが対に反対になってる。上昇下降、兄と妹の位置、右左
つまりこれは結局“選ばれし子供たち”にはなれずここ数年の細田作品に対して、「もっと僕たちにまなざしてくれよ」と地団駄を踏んで幼児退行していた僕たち、細田世代
そして、戦後日本で生きていく、全ての未だ何者でもない少年(くん)少女(ちゃん)たちに向けた作品なのである

思うに近代化以前の子供たちが自らの将来を憂いたことがあっただろうか
多くの人が生まれたときから何者になるかを定められていたはずだ
しかし戦後以降、社会のシステムは更に変容し、今では家業や“家”を継ぐ人は少ない
そもそも日本人として生きていく必要さえ、もはやないのかもしれない
何者にでもなれるという自由や可能性と引き換えに、自らで“何者か”にならなければいけない、というアイデンティティーの喪失そして獲得といった課題が現代を生きる僕達には重くのし掛かっている

そんな、何者にもなれず地団駄を踏んでいる哀れな僕達に細田は本作で一つの安らぎを提示してくれている
“怖いときは遠くを見ろ”
自分がいる場所が分からなくなったり、自分の足取りが不安な時、人は自分の足元を見がちだ。でも、そこに答えがないのならもっと大きな目で自分を捉えるしかない。自分は誰の子か?どんな人たちによって生かされてきたのか?そして誰を生かすのか?
立派な親なんていない。事実、作中のパパもママもキャンプに行く車に荷を積めるまで親とは呼べない。あの二人もまた何者でもない“くん”、“ちゃん”なのだ
しかし、人が誰かの子であるかぎり、自分の前には誰かを愛し誰かに愛され生を全うした人物がいたはずだ
そして、その脈々と続く生の営みの末に今、私たちは生きている
なんと誇らしいことではないか!?
私たちは皆、誰かが生きた証しなのだから!
ミライちゃんの手にの傷だってその血脈の中でミライちゃんが存在している証しなのではないか?いつか彼女がその証しさえも誇れる女性になったら素敵だなー
人間の最小のコミュニティである家族や家系にこそ、私たちを“何者か”たらしめるもっもと頑丈な基盤がある
くんちゃんのルーツを廻る冒険を追体験させることで細田はその事を私たちに提示してくれる

そのルーツという名のアイデンティティーをもってくんちゃんは来る最終審判(東京駅)を迎える
と、その前に本作の映像面についても少し触れたい
そう東京駅。このシークエンスは僕にとってはまさに至福の時だった
くんちゃんが東京駅に降り立った瞬間の「東京」の電子看板たるや!
もうここから凄い!
あのワンカットだけで鳥肌もの
ああ、僕らの細田が帰ってきた!!タタリ神に成りかけた乙事主並みの悦びだった
やはり、ああいった電脳空間というか電子描写を描かせたら細田の右に出るものは居ないだろうなと……

閑話休題
つまるところ、ひとりぼっちの駅である
(何者にもなれないと嘆き続けた者がたどり着く心境=迷子=ひとりぼっち)
あのホームからくんちゃんは如何に脱出したか?それが問題だ
ミライちゃんのお兄ちゃんであることを認めたから?いやそれでは言葉が足りない気がする
選ばれない子どもだったくんちゃんが、あの家系の一員としてのアイデンティティーを“回復”したことでミライちゃんのお兄ちゃんになることを自ら“選択”し兄妹という新な“関係性”を“再構築”することができたからだ。そうして、くんちゃんは兄という“何者か”に成り、兄妹はもはやひとりぼっちではないのだ
元来、人は一人では何者にも成れない。他者との関係性の中で何者かになるしかない。一方で人は誰しもが誰かの子どもであるならば、人は既に“何者か”であるはずだ
しかし、何故か私たちはそんな当たり前のことを忘れかけているような気がする。家族という最小単位のコミュニティの関係性でさえ稀薄に成りつつあるからか、はたまた“何者か”にならなければいけないという意識が一人歩きしすぎているからか
だからこそ、兄妹があのホームの先にたどり着く家系図に勇気を貰える
お前らだって多くの人たちの生を受け継いで今そこに“誰かの子”としているんだから胸張って生きていけよって細田がそんなこと言ってるような気がするのだ

最後にふっと立ち返ってみる
この回復や選択のによって関係性を再構築し最終的に何者になるかという行為は細田作品全てで行われていはいないか?
そんな作品を通して、私たちは今の私を生かしている人々の姿を偲び、そして私という存在を強く感じる
長年作品を通して“子供たち”をまなざしてきた細田が伝えたかったことを僕は今回やっと理解したような気がした
そういう意味では僕もまだまだ細田のまなざしの中にいた子どもの一人だったというわけだ
今回「未来のミライ」を観るにあたって、今まで拒絶していた細田の過去作を改心して観てみた。結果的に彼の真意の片鱗に触れ、きっとこれから細田作品は僕の中で今までとは違った意味を持ち始めるだろう
今思うことは僕を形成するひとつに細田守という映画監督がいて
そして、僕もまた“細田の子”だということ
胸張って生きていこう
ナリア

ナリア