【堤幸彦特集一作品目】
東野圭吾はやはり天才である。
この作品のテーマはずばり"人の死とは何か?"。
その正解の無さをまざまざと描き出した傑作である。
それは心臓が停止する事かもしれないし、脳が機能を停止する事かもしれないし、もしかしたら、(脳が医学的に機能を停止しているという前提があっての上ではあるが)親が死を認める事かもしれない。
この映画を観ないと三つ目の定義は訳が分からないが、映画を観た人ならきっと共感できるはずだ。
この映画では幼い子供が脳死状態となる。
そんな幼い女の子の脳死を彼女を愛してやまない家族は受け入れることができるのか、という極限状態を描く。
特に母親の描写は壮絶である。
この描写は全く大袈裟ではない。
幼い子供を持つ自分は彼女の気持ちが痛いほどよく分かる。
周囲から見たらおかしいかもしれないが、それに気づくこともできなくなるほど、親にとって子供以上に大切なものなどこの世に存在しないのだ。
終盤、愛する娘の生を周囲にも認めさせようと、娘に包丁を突き立てる行動は明らかに常軌を逸している。
ただ、常軌を逸してしまうほど、母親というのは子供への愛情が深いものなのだ。
そんな母親を演じた篠原涼子の演技が素晴らしかった。
ほぼ間違いなく彼女のキャリアベストの演技だったろう。
彼女の素晴らしい演技があったからこそ、本作は傑作となり得たのだと思う。
父親の描写も見事だった。
彼は決して家族を愛していなかったり、完全な無関心であるわけではない。
不倫もしているし、子供のお受験対策予備校も遅刻して来て、模擬面接中に電話に出るくらいの仕事人間ではある。
が、家族を愛している。
不倫もしているのに矛盾しているように思えるが、だがそうなのだ。
そして理性的なのだ。
これも不倫していることと矛盾しているように思えるが、だがそうなのだ。
この理性的で冷静な父親に西島秀俊を当てた配役も素晴らしかった。
そして東野圭吾はストーリーメイクも作品のテーマ設定も素晴らしいが、やはりこういった人物描写も絶妙なのだということを改めて痛感した。
東野圭吾作品アルアルであるが、彼は起伏のあるストーリーを必ず作るが故に、幸せそうな家庭環境が描かれる時は必ずそれが崩れることを暗示している。
序盤のこの物語の舞台となる播磨家の他に類を見ないほどの幸せそうな様子は、だからこそ見ていてあまりにも辛かった。
特に作中で脳死状態になる女の子は、野原で四葉のクローバーを見つけても、自分は十分に幸せだからと、他の人に幸せをもたらすためにそれを摘まない、天使のような子である。
だからこそ僕らはきっと感情移入してしまうのだろう。
大人は人生経験が豊かであるが故に、世の中には色んなことがあることを理解している。
だから播磨家の女の子が脳死状態にあっても、それを死だとは決めつけないし、彼女の存在を受け入れることはできる。
でも、子供たちは難しいかもしれない。
弟が学校で友達から言われたことは、嘘偽りのない子供達の本音だろう。
作中で母親は客観的な視点を見失い、周りがどのように見るか、冷静に判断できなくなっていた。
父親の言う通り、本来は家族が愛する子供を生きていると想い、育てれば良いわけで、それを周囲に強要しようとすると、どこかで軋轢が生まれてしまう。
本作で焦点を当てられた電気信号で人体を動かす技術は素晴らしい。
きっと多くの人を幸せにするものだろう。
本作でも女の子の手足を動かすトレーニングで、彼女の健康状態の増進に大きく寄与していた。
ただ、操り人形のように操作して所作を取らせるのは明らかに目的を逸脱していて、それだけ極限状態に播磨家が追いやられていたということなのだろう。
この映画が何よりも衝撃的なのはラストであった。
こんな結末は東野圭吾しか描けない。
これは下手をしたら、脳死状態にある家族を持つ人々にとって、ある意味"絶望"をもたらす結末とも言える。
もちろん臓器移植の結果、確かに主人公の身体の一部は世界のどこかで生き続けている"希望"は描いた。
だから確かに救いはある。
ただ、本来家族にとって最大の希望であった本人の回復には至らなかったわけで。
このラストの良し悪しを語る権利は当事者ではない僕らにはないのだと思った。
結局それは当事者、当事者家族の納得感なのだ。
そして、本作では主人公一家は納得感を持って娘を送り出した。
少なくともその事に安らぎを感じることぐらいは許されて良いと思う。
素晴らしいストーリーと役者の演技、人物描写をもってあまりにも道徳的に難しい脳死という死を描いた傑作。
素晴らしい作品だった。