YAJ

ラジオ・コバニのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

ラジオ・コバニ(2016年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【それでも人は生きていく】

『ラッカは静かに虐殺されている』、『希望のかなたに』に続くシリア関連作品の鑑賞。

 シリア北部、人口4万人の小さな街コバニを舞台にしたドキュメンタリー。このクルド人の街がISによって2014年9月に占拠される(理由はトルコと国境を接している=武器供与等支援が受けやすい、等々いろいろある)。その後、クルド人民防衛隊による反撃、国際連合軍による支援(=空爆)で2015年1月に解放される。
 そんなISからの支配を脱した街で、ラジオ放送を通じて人々に希望をもたらした大学生DJのディロバン・キコを軸に、紛争からの復興の姿を描いた作品。

 ドキュメンタリ作品なので、己の寡聞浅学を補う意味での鑑賞。とはいえ、シリアにおけるクルド人の立場とか歴史背景、トルコとISの関連、難民問題云々についての俯瞰的情報の類は殆んど触れられておらず、現場にカメラを持ちこんだ、生々しい映像がメイン。ただ、それだけに衝撃は大きく、いろいろ考えさせられる内容だった。
 69分と短い作品なので、興味を持った方はチラと鑑賞してみるといいと思います。

 戦場の衝撃、残虐なシーン、ハンディカムによる揺れる映像など気分の悪くなるシーンが前半にあるけど、大筋としては、解放後の街で、逞しく街を復興しようとする住民のパワーと、”紛争地域”と言われる場所でも、世界の諸国となんら変わらない若者の姿があることを、過度な演出、編集もなく見せている。 端的に「それでも、人は生きていくんだ」ということを表現している。

 タイトルが「Radio Kobani」なだけに、公式サイトにはキャスターやパーソナリティと呼ばれるラジオに係る人のコメントが多く見られる。「ラジオを聴くのは息をするようなものだと、改めて思う」(久米宏)、「人々をつなげたラジオの、人々と共に進んでいく街の、確かな歩み、大切な記録」(荻上チキ)、「ラジオの役割、ラジオの本質、ラジオの心を改めて考えさせられる作品でした」(ロバート・ハリス)などなど。
 が、然程ラジオが街の復興に寄与したとか、人々の心を和ませた、希望の火を灯したというような描かれかたはしていないので、そこは期待しないほうがいい。

 クルド人であるラベー・ドスキー監督が、兵士としてISと戦い亡くなった姉に捧げるべく、世界にシリアの現状を伝えようと乗り込んだ先で、偶然見つけた魅力的なラジオDJの視点を通し、戦争の悲惨さと現状、戦火の中で生き抜く人の逞しさをを至近距離から記録したにすぎない。
ラジオ放送の番組のネタとして、難民に取材にいったり、紛争当事者をゲストに招いて話を聞く等、現状を活写するにあたりラジオDJという立場が有益だったということは否定しないけどね。

 故に、ラジオ局での開局の準備や、20そこそこの女性が手弁当でやっているラジオ放送にクルド人民防衛隊(YPG)の女性リーダーや戦士が来て語るシーンには、やや違和感があったかな。

 作品冒頭から流れる主人公のラジオDJ、ディロバンのモノローグ。「わが子へ・・・」と語りはじめるメッセージは、監督に依頼されて彼女が書いたものらしい。まだ見ぬ未来の子どもに宛てた手紙が、作中、折々で少しずつ朗読される。悪くないんだけど、彼女がやっているラジオ番組の中のメッセージとして語ってもらったほうが真実味が増したのになと思うところ。ま、これくらいの作意(作為?)は演出として、ありとは思うけど。ディロバンは語る;

「わが子へ・・・ あなたが最初の一歩をこの街に踏み出す時、いたるところ広場には私の友人たちの流れた血がそこにあるのだということを忘れないで」

 悲しい出来事を覆い隠さず、踏みしめ乗り越えていくんだと言う、強くて重いメッセージ。



(ネタバレ含む)



 衝撃を受けるのは、
・崩壊した瓦礫の下から掘り出される死体処理のシーン。
・大津波が浚ったかのように完膚なきまでに空爆にさらされた白い瓦礫だらけの街の俯瞰映像。
・掴まったIS兵士の訊問と、その答。

『ラッカは静かに…』でも、スマホ、インターネット、SNSは活用されていたが、本作でもISとの紛争中の兵士が、友軍による空爆指令をiPhone経由で伝え聞いたり、マッチングアプリで男女が伴侶を探したりと、けっこうリアルに使われている。
 上映の後、主演のディロバンと同世代の22、3歳の日本のクリエーターたちによるトークショーがあった(これはこれで面白かった)が、彼らとネット世界の捉え方の違いが非常に興味深かった。登壇者の一人は、昨今の風潮でもあろうが、「SNSは90%がフェイクですから」と言い切る。嘘にも濃度があり、という注釈付きではあるが、それには半ば同意できる。

 でも、この作品や『ラッカ…』の登場人物たちが接するネット、SNSは、かなり「リアル」なんじゃないだろうか。そこに生活の糧があったり、あるいは命さえも預けてる場合もあり得る。だからと言って、日本の若者の感じ方を平和ボケと言ったり、ぬるま湯と批判する気はないけどね。そんなふうに思える平和で豊かな国であることに、安堵感と誇りさえも感じたりもする。

 作中、コバニの街は復興の兆しが現れた様子が描かれる。死体を掘り起こした瓦礫の街にも新らしい建物の基礎工事が進む。パン屋が営業を再開する様子は、生きていく実感が感じられるいいシーンだ。祭りで歌い踊り、公園で少年と少女は視線を交わし、やがて恋心も芽生えるのだろう。
 ラストシーン、ディロバンが花嫁姿で新郎と車に乗り込むシーンには、語り継ぐ次の世代に想いを馳せることができる。

 なにがあっても、それでも人は生きていくんだ、と。
YAJ

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