Float

Girls of CinemaのFloatのレビュー・感想・評価

Girls of Cinema(2018年製作の映画)
-
ドメスティックな作家だと思う。
良くも悪くもこの人がテーマにしている日本の若い女の「拗らせ」って、本人たちにとってはすごく大きくても、正直かなりしょーもないことでもある。

そのコンプを色々考えた結果欧米との比較に行き着くことも考え方として正しいと思うが、比較による「コンプレックス」を軸にしても、甘いところまでしかいけないと思う。
お金にも人生にもたいして不自由したことないんだなーだからこんなに自己愛だけ強くて自己肯定感低い感じなんだなって思ってしまう。
人のために泣くことのできる人が出てこないじゃん。全部自分とそれ以外で。自分のためにしか傷つけないじゃん。人のために傷つく時にこそ人は本当に痛みを感じるんだと思うけど。自分が被害者だ!って思っているときより、自分の拳が誰かを否応なく傷つけてしまったとき、人は本当に苦しむと思うんだけど。
自称HSPって感じ。

衒学的なセリフ言って歌舞伎町でキラキラ踊って、「苦しんでてかわいくてきらきらした自分」でお茶を濁す。
それでいいのかな。そうやって痛みを舐め合っていられればいいのなら、それこそドメスティックでとても日本的だと思う。それでいいのか? いいのか。いいんだろうな。

イギリスのアンドレア・アーノルドという女性監督の映画に描かれる若いイギリスの労働者階級の女の苦しみはもっとグサッとくる。それは女っていうか女という性別の人間として描いているから。山戸さんの描く女の子はかわいすぎるし、なんか少女漫画みたい。
山戸さんは女の子の味方みたいになってるけれど、それなら本当にこの映像で言ってるみたいに女を人間として描かないといけないのでは? 
いつも悲劇のヒロインに脚色されている。

被害者としてのかわいそうな少女像、痛ましくてキラキラした少女像、純粋すぎて傷ついてるが故の狂気とかでごまかさないで、「いや、それ痛いしきもいよ。あんたそんな可愛くないし」って冷静に自分を俎上に乗せて、それでも、その汚さごとまるごとファインダー越しに愛するのが映画じゃないのって思う(私はだけど)。
アメリカの植民地で、わたしたち日本人はリアルな悲劇を生きることすら剥奪されてんだよ? 
なんでこの監督は自分は女の子の味方の側ってのをひとつも疑わないんだ? リアルとかいうのになんで美少女しか撮らないんだ? はてながいっぱいだ。

少女というものに価値を見出して少女のために撮っている時点で結構日本社会のミソジニーを内面化していて、そもそもの出発点から敗北しているように見える。
少女が商品化されていることをわかっているクレバーな少女なのだとしても、結局それを魅力として利用してしまった時点で体制側のものになっている。美化しなくても人間は美しいのに、男の作った映画と逆のベクトルで女を利用しているだけではないか。
逆だと標榜している分、よりたちがわるいとおもう。

ヒロイン化してくれる作品は女にとっても気持ちいいから、拗らせた女には支持されるかもしれない。でもそれは舐め合いでしかなくて、構造は破壊していない。
それがすごく日本っぽい。

この人の作品には「他者」がいない。細田守の映画を見るときも思う。そしてそれが日本人らしさなのかもしれないが、無理解に被害者ヅラしてるだけじゃ何も変わらないだろうと思う。無理解な相手も自分も同じ人間であることに気づかないと。
こういう人が「めっちゃ考えてる才媛」みたいな扱いな日本ってけっこうやばいと思う。


私は女だが、女を大切に思うのなら、こんな描き方はしたくない。
MVとか、あんま意味のない映像としてならきれい。
Float

Float