海

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの海のレビュー・感想・評価

-
タランティーノの映画はフェミニズム的にもミソジニー的にも捉えてる人がいるから面白いよねと友人が言っていて、確かにわたしは、この人の映画をフェミニズム的だと受け取ったことがあるし、それを、逆説的にミソジニーだと主張している人も居て、答えを出すべきだと考えたこともあったけれど、結局それは、監督自身がどういう思想を持っているのかという話になるんじゃないかと思い、けれどそれに対する強い想いが如実に表れている作品がわたしが今まで観てきた中にあったとは思わないから(デスプルーフも自分が勝手にフェミニズム映画でもあると考えているだけで、それを見知らぬ誰かや監督本人に否定されたくはないが、映画が製作された時点でそういう意図があったとは考えづらいし、もっと別の場所に真意はあると考えているから。)、彼が自身の作品を、正しくて最高のものだと信じてこの世に送り出し、それに言い訳をしなくて済むように答えの全てが作中にあるように綿密に設計し、その後も愛し続け表現の責任を負ってくださるその覚悟があるかぎりは、わたしも自分で受け取ったその感覚を自分で大切にするということが、唯一示せる誠意なのではないかと思った。イングロリアス・バスターズを観たときとよく似た気持ちであり、ただ本作は、フィクションで現実に打ち勝つというのはむしろ次いでであって、今消えようとしている何かや、すでに消えてしまった何かへの愛と可懐しさと感謝を、それが伝えたいのだという意志を、強く感じていた。その対象は、歴史の中にあり、時代の中にあり、そして誰かの中や、また自分自身の中にあるもので、消えることが惜しいというよりは、消えることを心から祝福しながら、だけど寂しくもあるよと別れの挨拶として抱き合っているような、そんな感じだった。(リックとクリフがそれぞれに酔い潰れる予定のあった夜のような果てしなく一瞬の離別の静けさをこの映画全体から感じる。)けれど、だからといって、イングロリアス・バスターズのように、観ているこっちが感情そのものになってしまうほどの激しさが本作に無かったというわけではなくて。イングロリアス・バスターズは、最低で最悪なナチ野郎どもを今を生きる僕達の手で粛清してやるぜという単純明快な、意図まで暴力に染まり切っている作品ではなくて、何というか、“暴力に本当の意味で終止符を打つための暴力”があって、それは絶対に誰が何と言おうとフィクションの中にしかあってはいけないもので、軽い気持ちで共感しあの作品を善として掲げながら笑ってしまうことは、それこそが、わたしたち観客による、いくらでも簡単に口に出せる時代の正論という暴力、つまりあの映画の中で終わらなくちゃいけなかったはずの暴力の続きになってしまうような気がした。一方で本作における、フィクションの価値は、イングロリアス・バスターズで内包されていたテーマが、そのままドンと出てきたという感じの、よりわたしたちに近く想像のしやすい、だからこそ言葉に詰まり言及に慎重になるような、そういった歴史の書き換えで、ナチスvsバスターズとは似ているようで完全に非なるものだった。ただ本当に、人の想像や執着から生まれた(或いは目覚めてしまった)暴力に、同じように想像と執着から生んだ暴力で倒し打ち勝とうとしているこの映画を凄いと思ったし、新時代に負けまいと闘う古き時代の2人の男をあの件の時刻までひたすら育てあげる無駄で冗長な時間を毎度のことながら愛し抜けたし、腕力のある人間がそれに屈するしかない人間に手を上げるということが平気で起きる我々の世界で、その現実を本気の生きているという情熱で、向き合い解き放ちたいという真剣さで、未来がありそれは絶望とは呼ばないでしょうという陽気さで、やり返そうやり直そうだって映画だからという力で、肯定する…!あるいは、抵抗する!という、そのことが、そのことに創造者本人がきっと胸を張っていることが、やっぱり、わたしの生きつづける勇気にもつながっている、と感じました。
海