故ラチェットスタンク

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3の故ラチェットスタンクのレビュー・感想・評価

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初め見たときは自分でも信じられないぐらい受け入れられなくて、そこからしばらく悩んで結論を一旦出したものの、再びかなり悩んで、やはり点数は付けないことにした。基本的には「執着を手放していく」話だけど、自分達の空間を守ろうとすることにあまりにも躍起になっていて、奇譚なく言って醜い。だからと言ってこの映画が自分にとって重要じゃないのかは別だし、では綺麗に享受しうるのかというとその程でもない。このシリーズで1作目は母と、2作目は父と居るときをそれぞれ想起してきたが今作は家族といるときを想起した。家族と行動するのが本当に最悪なのは全く方向性がまとまらず、個々が動機を優先した結果必ず末端にいる人がバランスを取ろうと神経をすり減らすことだ。両親の間で板挟みになり、ダブルスタンダードに行動させられて苦心することもある。実際この映画で自分が一番共感できたのはグルートとネビュラだ。シリーズでは最も身勝手に行動してきた(グルートは2以降は別人なのでその辺よろしく)二人が今や一番責任を負い、指揮と尻拭いとケアを引き受けている。つんけんとした空気が漂う中二人が対照的なアプローチながら献身的にサポートを続ける姿には強いシンパシーと、無神経なメンバーへのストレスを感じざるをえない。それほどに、まとまりがなく、各々が自己中心的で、彼らを繋げてきた音楽も呆れ果てて最早その機能を果たさず、それ自体もある種身勝手に動くメンバーの一人としてそっぽを向いて座っていた。結局あらゆるものは自走していくものでそれは直しようがなく、結びつけようとしても即座に分散していってしまうものだ。幸せに撃ち抜かれればどうしようもなく走り出してしまうもので、そのサガは止められない。しかし難儀にも繋がることは必要とされる。今作でそれを唯一成立させ得たのは団結ではなく協働だった。各々のベクトルの重なる「共通項」、その一点において彼らは緩い繋がりを保って守護者としての責任を果たし、その後、再び拡散していく。きっと家族とはそう言う側面もあるのだろう。思い通りになり得ない、繋がり得ない他者として、互いが自走していく過程で時に「協働」し、再び自身の道へ戻っていく。その点において、自分は深く納得した。あるいは不愉快な家族と自分を少しだけ許し得たかもしれない。また、執着を手放すためにある者は愛した人の理想を受け継ぎ、ある者は休養に入り、ある者はただ踊った。いくつかの過程において多くの批判はあれど、少なくとも彼らにはそれが正攻法なのだろう。それでもやはり善意と悪意の板挟みの描き込みの足りなさや暴力の反転のなさ、倫理の曖昧さや政治的なアピールのあけすけさなどガン監督作としての疑問は残る。しかし劇場で4回観たのは確かであるし、自分の中で分かち難く考えていかなければならない作品であることも確かだ。満点にも最低点にも、その平均点にもなりうる。どう扱うか、多分この先も悩み続けるだろう。ただいくつか、圧倒的なオブジェクトのサイズ比やドデカイ音響を筆頭とするSF描写の数々、そしてTHE THEのあの曲を教えてくれた点においては惜しみのない感謝を送りたい。ご馳走様です。ありがとうございました。