せいか

マローボーン家の掟のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

マローボーン家の掟(2017年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

5.9、円盤にて視聴。
以下、自分用メモ。

監督および脚本が大好きな作品である『永遠のこどもたち』の脚本を担当したセルヒオ・G・サンチェスとのことでずっと観たかったものをやっと観た。

本作はある種、その『永遠のこどもたち』とは同じ枠にあるような、それとは対にあるような、そういう作品である。
私の頭にまず『永遠のこどもたち』があったからというのもあるけれど、正直言うとからくりなどの主要な展開は早々に読めてしまったのだが、それでも紡がれるものに心打たれる作品だった。というより、監督自身も『永遠の』を念頭に鑑賞されることを踏まえた上で作ってるところもあったのではないかと思うので、その上でこういう落着をしたところに意味があるのだろう。

原題はたんに『Marrowbone』なのだが、邦語タイトルは『マローボーン家の掟』となっている上、あらすじも基本的に「そこに暮らすマロ―ボーン家の4人兄妹は、不思議な"5つの掟"に従いながら、世間の目を逃れるように生きていた。」(フィルマークス記載あらすじ)と、「掟」をごり押ししているが、本編ではこの掟は別にそこまで主張は激しくない。精々鏡を見るなというものが強調される程度である。

Marrowboneは主人公たち兄弟の母方の旧姓で、骨髄(転じて、真髄や核心)を意味する。
   → も少し言っておくと、Marrowboneは食用の骨髄のはいっている骨、髄骨のこと。marrowのみで骨髄など上記の意味。同音意義だと仲間のなどの意味もある。本作はこのへんの意味合いひっくるめて捉えてしまって良いと思う。
ちなみに面白いなあと思ったのが、殺人鬼で家族に対してもDVをふるっていたというクソ親父の姓がFairbairnだったこと。意味するところは「fair=正当なる、公正なる、美しいなど」+「bairn=子供」程度の意味だろう。bairnは遡れば家畜小屋などの意味もあるようだが。


物語は、母親に連れられて父親がいるイギリスから逃げるように四人兄弟が母の旧家(アメリカ)へと逃げてきた所から始まる。町からも外れた自然の中にある屋敷は廃墟然としている。ここまで逃げてきても全員がそれでもなお怯えていたが、母親はおもむろに床に線を引くと、ここを越えたら過去は消え去って新しい人生が始まるのと持ちかけ、彼らにこの境界を超えさせる。
そうしてひっそりと隠遁生活をしながらも彼らの平穏な人生が始まるわけだが、そうした平穏はすぐに終わり、無理な旅をした母親は数ヶ月後には死ぬ。そのときに長男に、21歳になっておまえが大人として采配をふるうことができるようになるまでは母の死も隠して隠遁生活を続けること、そうでなければ兄弟はバラバラにされてしまうこと、おまえたちはずっと一緒にいなければいけないこと、死体は庭に埋めることなどを託すのだが、そこで、実は夫の金(大金)をくすねてここまで持ってきたことも明かす。長男はこんな汚れた金を持ち込んできたことに憤慨するが、それに気付いたときには母親は早々に事切れていた(彼女が死んでいる様子は鏡に写される形で描かれる)。
それからは長男のみが町に出て必要物資を調達するなどの生活をする(町でのやりとりからも母親存命のあいだも他の兄弟は町には来ていないことが伺い知れる)。
それでもまあ平穏な時は続いていたのだけれど、ある日、脱獄してきた父親が姿を表してまた事態は一変。主人公は父親を屋根裏へと閉じ込めてしまうが、ここから異音など怪異が出るようになり、鏡を見るななどの法則ができてくるが、これらの法則は末弟に対してお化けから逃れるための作り話という形が取られる。(実際は長男の夢が覚めないために自ら作り出したものなのだが)

以降の紆余曲折のあらすじははしょる。思いだすためには英wikiを見ること。(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Marrowbone_(film))

本来の何かあったときの砦は屋根裏部屋で、長男は父親が来たときに兄弟たちをここに閉じ込めて(自分に何かあったらそこで兄弟たちも死ぬしかないんだけれども)父親と対峙し、気絶している間に父親は煙突から屋根裏に侵入、子供たちを(たぶん)殺害する。そうして密かに侵入する獣を食べたり、雨水を貯めたりしてなんとか生き長らえる地獄のうちに過ごしていたりもしたのだが、子供たちの肉も食べたのかとかは分からない。布を掛けるくらいのことはしたりはしてたけど、作品上で実際に彼が口を開いて話すこともなく(なんなら喉を刺されていた)、視聴者からすれば彼は外聞で形作られたよくわからないモンスターのままで話は終わる。
まだしゃべることはした母親(※これも呪いをかけるためにしか存在しないくらいの登場のしかた)も子供たちにとっては呪いをかける存在だったけれど、父親も呪いとしての存在でしか描写されず、そのへんかなりヘビーである。
長男がまず屋根裏に兄弟を閉じ込めたのも内に内に、我が身の内に彼らを閉じ込めるようなものでもあったと思うし、とにかく救いがない。
マローボーンが骨髄を意味することは先に触れたけれど、マローボーン姓の母がここに連れてくる因果とその呪いにしろ、このマローボーン家の屋敷(特に屋根裏)の中で蔓延り築かれるその骨髄(核心)としての機能にしろ、このへんの意図が個人的にかなり好みで、やっぱりこの人の脚本好きだなあと思った。

本作はとにかく母親の呪いに満ちている。
彼女が兄弟は離れ離れになってはいけない、私から離さないとしたからこそ本作の悲劇は生まれている。もちろんクソ親父が一番の原因なのはそれはそうなのだろうが、暴力的に偏ったマッシズムの塊、過った父性の行き着くところとして描かれているのがこのクソ親父だとしたら、精神的に偏った過った母性の行き着くところがこの母親なのだと思う。彼女は彼女で家族は一つであるべきに囚われて暴走していた。そしてその呪いで子供をこの屋敷に縛り付けたのである。
故に子供たちを助ける存在にはならず、死後も、長男の自死を防ぐのも録音した優しい歌(「ここにくれば私がいる」などという歌詞)で、彼に家族の幻を見させて狂わせ、家に取り込むことしかしない。彼を解放することは一切しないのだ。作中では少なくとも目立つ形で庭の墓も映されもしないのも印象的である。
優しい幻を、はなればなれにならないための幻を長男が見るためにした儀式が、この屋敷にして最初に母親がした、境界線を越えて過去を忘れる儀式だったのもとにかくつらい。
長男は兄弟を屋根裏部屋に閉じ込め、父親をも閉じ込め、そしてその長男を既に死んだ母親が閉じこめ続ける。そしてその母の肉体は庭からこの屋敷を見守っているのだろう。何がこの屋敷の中心で骨髄の働きをさせて蔓延らせているのか。繰り返すが、母親の呪いである。こわいよーーー!!!
そしてまたこの点が『永遠の』とは異なってもくるし、同じだともいえる点だとも思う。ただこちらのほうが明らかにじっとりヌメヌメとしている。

長男は最後に恋敵でいろいろ自分にとって障害でもあった若い弁護士を殺し、好きな少女さえ殺そうとしていた父親を、今度こそ屋根裏部屋の中に足を踏み入れて頭を打ち抜いて(というより致命傷程度には当てた程度か?)殺す。
父親の頭を撃ち抜くというのも面白くて、父親の頭はここでは屋根裏部屋を表していて、父親が現れてからと言うもの長男を苦しませ悩ませていたものが二重に重なっていたのだと思う。
この障害だった父親を片付けたのも多重人格として登場していた次男がやってしまったのも長男の解放にはつながらないとも思う。呪い解除失敗というか。

けれど、前には自殺しようと思ったときに自分の頭をむしろ撃ち抜こうとしたそれを父の頭に果たせたところで大団円ではなく、彼は重度の精神病患者として生き、いつまた頭の中の兄弟たちが出てくる(※多重人格として)かも分からないまま薬を飲んで過ごし、この牧歌的な景色の屋敷の中に留まり続けるのである。それを共に暮らして彼女が支えてやるのだけれど。
彼はこのマローボーンから解放されないし、彼女が在りし日の兄弟たちを撮った写真を見ても、庭で遊ぶ兄弟たちの幻を見ているのである。このラストシーンのチャプター名は「色あせないもの」。
フレームに入れられた写真を再び見下ろすと、ガラスに長男の微笑む顔がうつりこんでエンディングなのだが、これがまたどうとでも取れる演出なのだけれど、この屋敷にいるという時点でもうお察しではあるのだろう。
これまでは鏡を見ても自分一人しか映らなかったものがここでは他の兄弟たちも一緒にいるからこその微笑みだろうし。

彼女は直前に医者から、彼をあの寂しい屋敷で支えても、彼がきみを支えてくれることはないし、病んだ心では愛も育めない、子供も産めないだろうと語りかけていて、彼女はそれでも受け入れるわけだけれど、帰るのがあの優しい景色に包まれた夢のような寂れた屋敷なのだからとにかくもう不気味でしかない。愛は乗り越えられるんやとかそういう優しい話ではないはずである。

『永遠の』においてラスト、主人公は優しい幻の世界に囚われることを選んで夜のうちに終わったが、昼の中で終わるこちらももう、穏やかな微睡みの中にあり続けるのだろう。

かつて長男は父親を告発してのけたことがあって、それで父親は逮捕されるに至っていたのだけれど、そうやって足掻いても、これだけずっと何をしたって頭の中に巣くい続ける父親の、そして母親の呪い。本作はそういうトラウマを一つの屋敷、そしてその屋根裏部屋を舞台にして丁寧に描きあげた作品なのだと思う。
親から与えられた呪いが子供に何をもたらすのか。究極、本作はそれを描いているものなのかもしれない。

末弟みたいになってる子は、作中で長女が父親に性的DVを受けてたらしいことが新聞記事の形で伝えられていることだとか、兄弟の写真の中に唯一いなかったことだとか、年が離れすぎていることだとかから、たぶん、長女と父親の間にできた子供なのかなとゲスの勘ぐりをしている。けれど、最初に境界を超えてきたのもこの子であり、長男からしたら家族なのには変わりはなく、弟としてとらえるくらいがいいのだろうな。
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