学童疎開は知っていても、疎開保育園というものがあったことは知らなかった。
特に戦時中、東京や大阪などは大人などの疎開は基本的に認められなかったので、空襲で親を亡くした子供たちは多かったと思います。
そんな中で、小さな子供たちの疎開を実行された幼稚園の先生たちの尽力は並大抵ではなかったと思いますし、可愛いわが子を疎開に出す決意をした親御さんたちの心情もさぞ悩まれたことでしょう。
疎開先も大変だったかもしれませんが、地域の方々との交流など映画以上に大変な部分もさぞあったことと思うと先生たちは気の休まることなどなかったと思います。
大切な人たちが空襲の爆撃であっという間に亡くなってしまう。
当時、ケンちゃんのご両親のように空襲で防空壕に逃げて、蒸し焼きのように亡くなっていった人も全国沢山いたそうです。
どこに行っても戦争が追いかけてくる、逃げる場所なんてないという楓先生の言葉が彼女自身、東京で体験した家族の死や子供たちの親御さんたちの消息、そして火傷が物語っていると思うと心痛くなりました。
ケンちゃんとみっちゃん先生の川でケンちゃんの家族の死を伝えるシーンは大切な人を亡くしたもの同士だからわかり合えるものを凄く表現されていたと思います。
先生たちが守った53人の子供たちが戦後どのように生きてきたのか、こういう作品で私たちが知ることができたことはとても大切なことだなと思います。もう子供達の健気さ、先生たちの頑張りに涙してしまいます。