シートン

5時から7時までのクレオのシートンのレビュー・感想・評価

5時から7時までのクレオ(1961年製作の映画)
4.6
この作品の画面にはいつも、鏡が映っている。
ショーウィンドウ、タクシーのルームミラー、鏡台、車のフロントガラス、手鏡。
クレオは歌手である。ステージに上がって歌うことが仕事だ。しかし、仕事とは言え、いつも一方的にただ視られることへの不快と嫌悪を感じている。

視られることとは、他者からの視線に犯され続けることだ。彼女は「おなかの病気」を抱えている。癌であるという。彼女の年齢からして、おそらく子宮に癌が見つかったのだと考えてよいだろう。彼女は、視線という暴力に晒されて、その病理を内に孕み、いま自らが、いや自らの尊厳が、死に瀕していることを自覚し、絶望している。

彼女は、街でショーウィンドウのなかから通りを眺め、ショ−ウインドウ越しに帽子を物色する。帽子の店に入ると、店内にある試着用の鏡を絶え間なく覗き込む。

彼女はもっぱらタクシー移動である。タクシーの後部座席に座って前を見ると、ルームミラーが目に入る。家に着くと、鏡台の大きな鏡がある。彼女に会いに、恋人や、作曲家と作詞家が訪ねてくる。彼女はずっと、鏡のなかに閉じ込められたようにそこにいる。

しかし、徐々にそれが耐えられなくなってくる。彼女は、たまにやって来て短時間で帰っていく恋人にも、おセンチなシャンソンを歌わせようとする作曲家や作詞家にも、嫌気が差してくる。彼らがご機嫌取りに口にする冗談も、ことごとく病気や死を想起させて不快だった。彼女は部屋を飛び出す。

彼女は、家に飼育された動物のようだった。しかし、今度は彼女が街を、街の人々を、視る番だ。彼女は新鮮な目で街を眺める。

人だかりができている。芸人が中心にいて、カエルを飲み込み、それを吐き出すという芸をしている。彼女は不快感を覚える。それは、その芸人に好奇の視線を送ってしまった自分自身への不快感かもしれない。けれども、彼女は、帰りがけにも同じ芸人のパフォーマンスを思わず視てしまう。

彼女はカフェに入る。彼女は、ジュークボックスで、自分の歌をかけた。しかし、彼女に視線を向けるものはなく、歌に反応する者もない。彼女は安心する。彼女を視ている者はないのだ。そこで、彼女はサングラスを手にした。サングラスをかけて、彼女はカフェに来ている人々を眺める。彼女は漠然と視る側に回った。それは、彼女に客たちが向ける視線とは違った。もっと、ぼんやりとした視線だ。

彼女が座った席は、ミラーボールのように乱反射する鏡の柱だった。そこに映る彼女の像は、断片的である。そして、あらゆる方向の像をまんべんなく映し出す。彼女は、ここでようやく、視ることと視られることの二項対立の外に出る契機を得る。それは、彼女を見つめるだけの者から自由になることである。すなわち、彼女を部屋に閉じ込めておく人々からの自由。だが、その最たる者とは、クレオ自身なのである。自意識からの自由。

彼女は、友人のドロテに会いに行く。ドロテは、彫刻家たちのヌードモデルをしている。アトリエのなかで、何人もの学生らの前で、服を脱いでいる。しかし、ドロテは、そのことをまったく気にしていない。自分の体に自信があるし、お金ももらえる、と言う彼女は、向けられる視線に違和感を覚えることはない。それに対してクレオは、「つつしみがないわ」という。

このドロテのあっけらかんとした開放感は、健康さを感じさせさえする。そのことを象徴的に示すのは、ドロテが車を運転し、買い物をする場面だ。クレオは、車のなかでまっているが、ドロテは、外に飛び出していく。クレオは車のなかから、あるいはフロントガラス越しに、通行人を眺めている。彼女はずっと、車という機械のなかから、外をただ視ている。通行人と視線がぶつかることもあれば、こちらが視ていることに、相手が気づかないこともある。でも、彼女は車のなかから飛び出せない。

そして、ドロテがクレオを連れて行くのは、友人のラウルのところだった。ラウルは、短編映画を作っている。その映画は、サイレントの古典的な喜劇作品だ(そして、この「劇中劇」には、ゴダールやアンナ・カリーナがカメオ出演している)。その作品は、自分の認識にかかわる寓話である。主人公(ゴダール)は、サングラスをしている。すると、黒ずくめの男たちがガールフレンドを連れ去って行ってしまう。彼は必死に追いかけるが、間に合わない。彼は、こんなサングラスをしているから世界が真っ暗なのだ、といって、サングラスを川に投げ捨てる(これを、いつもサングラスをしているゴダールが演じているのが滑稽である)。すると、世界は明るくなる。黒ずくめに見えたガールフレンドも、彼女を連れ去る男たちもみな白い服であった。そして、彼は、その明るい世界で、白服の男たちを返り討ちに遭わせ、彼女を奪還し、ハッピーエンドとなる。

サングラスを外すこと。

すると、映画の世界は、明るくなる。高架下、ビルの陰、黒々とした影が覆うことの多かった画面は、明るく白んでくる。
帰り道、クレオは鏡を落として割ってしまう。街を歩いていると、人だかりができていて、「殺人よ」と噂し合っている。銃弾で割られたガラスが見えた。クレオは不吉な気がした。

彼女は、タクシーでドロテを送ったあと、そのまま公園に向かう。日の長い季節、夕方の公園で、子どもたちが生き生きと遊んでいる。泉で、彼女は、帰休兵のアントワーヌと出会う。おしゃべりな彼に、クレオは冷たく当たるが、明るく思いやりのあるアントワーヌに彼女は心を開いていく。きょうは夏至なのだった。アントワーヌがそのことに触れるまで、示唆されることすらなかった。きょうは、一年でいちばん明るい日なのだった。病気の話を聞くと、検査の結果を聞きに行こうとアントワーヌはいう。彼に導かれてクレオは、病院に向かうことにする。タクシーで行く?と聞く彼女に、アントワーヌは、バスで行こう、という。

バスは、乗降口が吹きさらしで、ガラスを隔てず外がみられた。アントワーヌは、外を眺めて、樹の名前を彼女に教え、道端から花を抜き取って彼女に渡す。タクシーの小さな車内で、外部と隔てられて移動していたクレオは、開放感を感じる。

彼女は自由になった。病院に行くと、医者はいない。途方に暮れて、外を二人で歩いていると、医師が車に乗って現れ、彼女は、放射線治療をすればよくなる、といわれる。彼女は希望を感じる。それ以上に、彼女が小さな部屋と周囲の人々から自由になり、なによりも自意識から自由になったことが開放感を感じさせた。割れた鏡は、不吉の象徴ではなく、視線からの自由の象徴であったのだ。

幸せだ、と彼女は言った。時刻は6時半。アントワーヌは8時の汽車で発つ。7時までのクレオは、あと30分、どう過ごすだろうか。8時までのクレオは? そして8時からのクレオは?

物語内の時間と、スクリーン時間が一致するという構成のこの作品は、「5時から7時まで」、といいつつ、あえて、最後の30分を、そしてそのあとの1時間を空白にしているのであった。でも、彼女はもうだいじょうぶだ。自由。
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