3110133

ペンギン・ハイウェイの3110133のレビュー・感想・評価

ペンギン・ハイウェイ(2018年製作の映画)
4.0
悲しいホラー、謎への追憶

「解明された謎」はもはや謎ではないし、「解明されることが約束されている謎」は謎のフリをした謎でないもの(明瞭なもの)なのだから真に謎ではない。
「真に謎なもの」は究極的にも解明されることがないものとして本質的に謎であり続ける。
だが、謎が謎であるための根拠は、解明することを要求する限りにおいてだろう。わたしたちがそれをそのままに受け入れることなく、それを解明しようとすることによって、それは謎として存在するから。
と考えると、わたしたちは「真に謎なもの」に対して、解明の絶対的な不可能性を前提として、それでも解明しようとしつづけなければならない。

この映画は謎として、解明されることなく、解明しようとし続けることを要求するので、わたしはいろいろと考えていなければならない。わたしたちが考えることを止めれば、謎としては減退していってしまうので、この映画は自己存在を持続させるために、解明しつづけたくなるような「魅力的な謎」でなければならない。

では、それが(社会的に)成功しているのか?その判断をするほどわたしは資料をもたないので保留するとして、わたし自身にとっては成功したと思う。劇中に散りばめられているアイテムは、解明するための武器として周到に配置されている。そしてなによりこの物語は、文字通り生き生きとアニメートしている。
以下、思考の断片の一部。

この物語における世界を、劇中に言及されるように、内と外が反転したものとして考えてみる(赤瀬川原平のかにの缶詰)。
簡単に言えば、この物語の舞台となる町は、主人公アオヤマ少年の内なる世界ということになる(町から出れないのは、内と外が反転したとしても、その本質が少年の内である以上、限界をもっているから)。海と呼ばれる球体のなかが外の世界。
ここで重要なのは、アオヤマ少年の内なる世界は(海としての)外の世界の無限遠に接しているということ(反転した外の世界としての海の表面は世界の無限遠)。世界の最も遠く、この世界の彼岸に限りなく近いところ、もしくは彼岸そのもの。
それを何と呼ぼうか難しいのだけれど、誤解を恐れずに言えば「あの世」。世界の果てとしての「終焉」ないし「死」にもっとも近い場所に、アオヤマ少年の内なる世界は接しているということになる。

その接面に立ち現れる謎としての「お姉さん」。この文脈で世俗的に考えるとかなりホラーなことになる。あの世の人。
だが、そのお姉さんが物語の舞台となる少年の内なる世界に存在しているということは、お姉さんに少年の内が反映されている(流れ込んでいる)ということになる。それは例えば、少年の願望や理想といったものだろう。(アオヤマ少年が理想的な天才児なのも、この物語自体が彼の内の世界、彼の願望に基づいていると考えれば受け入れられる)。

ここで気になるのが少年の部屋の二段ベッド。アオヤマ少年の妹が小さい頃に使っていたと考えることもできるのだけど、それにしては妹は幼い。
少年より年上の存在がかつて使っていたのかもと想像したとき、あの世と深く関わりを持つお姉さんが、つながってしまった。

お姉さんの存在は、アオヤマ少年にとって、存在している(していた)ことだけが確かで、それ以上は不明瞭で確かめようのない謎そのものなのだろう。
お盆で精霊迎えをして、アルバムを引っ張り出してご先祖様の思い出話をする。思い出さないと思い出からも消えてしまうから。謎は解明しようとする続ける限りで、消えずにいてくれるから。
それは夏休みに行われる追憶の物語。

でもきっと、これは主観的な思い込みなのだろう。メランコリーに浸るアレゴリカーの恣意的な解釈に過ぎない。それでも、散りばめられたアイテムが、そのような星座を描くとき、ぴたりと布置連関を持つのだ。
それで、勝手に悲しくなって涙を流してしまったのだけれど、
謎の本質は謎なので、たぶんそうじゃないのだろうということで。

(それでも、この作品がわたしに取り憑くのは、大切な存在の喪失とそれへの追憶という、この世に存在するわたしの逃れられないものに触れているからだろう。)

個人的にはそれ以上に石田氏と旅したイタリアの思い出がキラキラと立ち現れて嬉しかった。おばあ様が貸してくれたトランクの壊れたキャスターや街角をスケッチした手帳やgoogleMAPの通信料の請求額や。
才能に満ち満ちている彼はこれからも良い作品をたくさん作っていくでしょう。楽しみです。
3110133

3110133