RAMPO

ライトハウスのRAMPOのレビュー・感想・評価

ライトハウス(2019年製作の映画)
2.6
一日のやるべき事を全て終え、就寝までに出来た僅かな自分だけの時間、何も考えずゆったりと誰かが語る魅力的な夢物語に耳を傾けたい、そんな気分の時に選ぶ作品ではなかった様です。

シュール系は決して嫌いな訳ではありませんが、それでもなお商業映画、作品として世に出す限りは多少の補完をもって理解に至るものであって欲しいところ。

その意味で本作は難解に過ぎ、ほぼ理解不能。
表面をなぞっただけの浅めの考察から作品のモチーフとした素材、舞台設定や登場人物設定、終始不安を掻き立てる音響や白黒映像を含めた表現技法に至るまで絡めた上での深めの考察まで、それこそ観た人の数だけ色々な考え方はできると思いますが、ではどの考察が本作の意図に最も近いものなのかが分からない。

説明過多な作品に対して大概は批判に晒されますが、その批判は言葉や文字で説明している事に対するもの(要は映像作品なんだから文字や言葉じゃなくて映像で描けってこと)が多い様に感じます。
つまりは説明の“範囲”や“量”ではなく“手法”の問題であって、もちろん上映時間に制限がある以上、何から何まで説明するのはキリがないとは思いますが、その辺は理解に足るギリギリの情報の取捨選択、編集能力が問われる部分と思います。

例えばそれが小説などの文章で構築された物語であれば、それを読む者の受け止め方や知識、意識、理解力の差、文字や単語が内包する情報量の限界等もあってその脳内に想起されるビジュアルイメージには大なり小なり差異が生じるのは当然です。
また、文章という表現技法であれば、敢えて描かない事により寧ろ作者の意図が明確に伝わることもあることは承知してます(“行間を読む”、“暗黙の了解”、“言わぬが花”なんて言葉もありますね)。

しかし、映像を表現技法とした作品であれば、分かる様に(敢えて映像化しない部分にしても、映像化しなくても若しくは映像化しない事で伝わる様に)描く事が重要なのではないかと。
「観た者の想像にお任せします」とはよく有りますが、観た者からすれば、脳内補完によって「あれはこういう事だったんだろう」と、その物語を自身の中で完結させるため、(無理矢理にでも)納得させるでしょう。
人によっては、公式の解説ページや誰かの考察を読んで、なるほどと納得した気になるかもしれません。
しかし(それが余程単純明快なものでない限り)一抹のモヤモヤが残りませんか?

「何かよく分からないけど映像が良かった」「何かよく分からないけど音響が素晴らしかった」「何かよく分からないけど演者がカッコ良かった」「何かよく分からないけど舞台が美しかった」「何かよく分からないけど・・・」・・・。なんだかなぁ。
「何だか分からない」ことを何となく芸術的であるかのよう感じて、自身が面白いと思わないものまで高評価する気になれないんですよね。

本作に限らず世の中には難解な作品は多々ありますが、私は基本、公式解説は読みません。映像作品はそこに描かれた映像(そこから得られた情報)が全てだと思うから。
他者の考察や感想は読みますが、それは自身の理解の裏付けを得たり、見落としたり気が付かなかった部分、自身とは違った視点に立った解釈等を参考としたいから。

そうした諸々の点で、本作は私にとっては、分からない。面白いかといえば、面白いとは思えない。もう一度観たいか、また人にお薦め出来るかといえば、もう観なくて良いし、積極的にはお薦めしない。
そういう作品でした。
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