テテレスタイ

教誨師のテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

教誨師(2018年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

逃げ出したくなる映画。

主人公は教誨師(牧師)として6人の死刑囚と面会する。6人の中でも屁理屈を言うあの若い死刑囚(高宮)にはひどく腹が立った。しかも主人公に対して逃げるな!と詰め寄る。この逃げるな!というセリフは観客に言っているようにも感じられて、この映画の内容から逃げるな!と言われた感じがした。でも、正直逃げ出したい。

高宮以外の死刑囚も、機嫌を損ねるととたんに凶暴になる人が多かった。そして、文字を習ったお爺ちゃん(進藤さん)以外、誰も真剣に反省をしようなんて考えていなかった。でも進藤さんは主人公のことを敬愛して、真剣に主人公の話を聞いてくれた。だから、まるで進藤さんは主人公に教誨師のやりがいを実感させるためにあの場に存在していたかのようで、主人公にとっては救世主そのものだったと思う。主人公は牧師になりたての新米で教誨師の実績もほとんどなかった。だからもしも進藤さんがあの場にいなかったら主人公は教誨師のボランティア活動を辞めてしまったかもしれない。進藤さんが冤罪の疑いが強いのもそういうことだろう。



主人公は高宮に自分の姿を見ていた。主人公も若いころは大人に反発していたからだ。特に継父に敵意をむき出しにしていた。継父は基本的には気の優しい人で、でも実子が主人公に襲われたのを見てかっとなって主人公のことを殺そうとした。この継父は死刑囚の小川と重なる。小川は、貧乏な息子を馬鹿にされてかっとなってバットで相手を殺害してしまった。

そして、ここからがややこしいのだけれども、高宮の言動を見てかっとなって早く死刑にしろと叫びたくなってしまう僕たち大人の姿は、継父や小川の姿と重なり、そして主人公は今は小川の境遇に同情したんだよね。

つまり主人公は若いころは、言うことを聞かない子供を力づくで罰しようとする大人(継父)に力づくで反抗したけれども、大人になったら小川に同情した。これは立場によって考え方が変わることを意味している。

ここで進藤さんの言葉が活きてくる。さくらは自分をさくらだと思っているのだろうか。自分の(下の)名前は一生変わらないが、しかし自己認識は変わるんだよね。子供が大人になってそして主人公は教誨師になった。どの立場でものを見ているのか。同じ桜の綺麗さでも、見る立場によって綺麗さの意味は変わるだろうし、そもそも自分の立場さえ年月を経たりすれば変わってしまう。

だから主人公は、子供の頃に思った気持ちに立ち返って、自分の子供の頃の鏡像である高宮から逃げずに立ち向かった。でも、時間切れで高宮には逃げられちゃったんだよね。刑が執行された。しかし、刑を執行される直前の高宮の姿には逃げるというよりも、刑から逃げられない恐怖が映し出されていた。

なぜ逃げられない恐怖を高宮に表現させたんだろうと疑問が湧く。もちろん、高宮の屁理屈はすべて俺を死刑にするなという言外の意味を持っていたし、主人公から発せられた次はお前の番だという気配を感じ取って、高宮は最後の面会で弱気になったので、ストーリーとしては筋は通っているのだけれども、彼を最後まで悪辣に描くこともできたわけで、なぜ最後に死を恐怖させたんだろうかと疑問に思うわけなんだよね。

日本は平和ボケしているとよく言われる。もちろんテレビニュースでは悲惨な事件が報道されるけど自分の周りに限定すればすごく平和だ。だから日常の中で死を実感することがない。死を実感せずに育って、自分が死刑を執行される段になって初めて死を実感したのが高宮。理想的な平和な世界を作ったことで、死を実感できない社会が作られ、逆説的に死を軽視する若者が誕生してしまったという仮説がなんとなく自然と思い浮かぶ。

でも、その仮説が正しいか分からないし、社会のある一面を切り取った姿なだけかもしれないので、この映画に適用できるかは未知数だ。この映画では、進藤さんが交通事故を起こしていた。自動車を運転してたら普通に死は実感できる。だから、この映画はもう少し別なことを言っているような気がする。この映画は高宮の逃げられない恐怖でいったい何を表現していたんだろうか。

主人公は未知のものに恐怖すると言っていた。高宮は博識だったが、死の先の知識はもっていなかった。当たり前だが死んだ後のことを知っている人間はいない(イエス・キリストを除いて)。主人公は穴をずっと見続けると言った。穴って何だ。高宮が吊り下げられて落ちる穴だろうか。地獄へと続く穴だろうか。

率直に言って、死がなければ宗教も存在しないと思う。死の恐怖から逃れるための手段が宗教だと個人的に思っている。高宮の逃げられない恐怖は宗教を肯定している。逆に言うと、高宮は宗教を肯定するために存在している人物だ。

進藤さんも同様に教誨師としての主人公を肯定するために存在していたわけで、進藤さんと高宮はまるで神と悪魔のようであり、神と悪魔の存在が宗教を存立させていると言って良いのかもしれない。

そして、神と悪魔は僕たちの心の中にいて、一人ではたぶん悪魔の衝動には勝てない。だから誰かの助けが必要で、でも、人の弱みに付け入る悪い人もいて、悪い心に囚われないように教誨師が助けになってくれる。

でも待って。高宮は主人公を肯定するために人を殺したのか?

いくら主人公を肯定するためとはいえ大勢の罪なき人々を殺したなんて考えたくないし、そもそもそんなことで肯定されたくなはい。しかし、もしも高宮の存在が集団幻覚だったとしたらどうだろうか。あの関西弁のおばちゃん死刑囚・野口は、橋本という実在しない刑務官の幻覚を見ていたし、主人公も兄の幻覚を見ていた。拘置所にいるみんなが悪魔の幻覚を見ていたとしたらどうだろうか。だから、この映画のラストシーンでは、主人公は拘置所に向かって歩き出したのではないだろうか。本当に高宮という死刑囚はいたのかを確かめるために。そして、もしかしたら進藤さんも幻覚だったのかもしれない。しかし、手元には確かに進藤さんからもらったあの紙は存在している・・・。



この映画はかなり宗教を肯定的に描いているので、宗教が嫌いな人には苦痛かもしれない。実際、幽霊なんて非現実的だし。でもご先祖様の魂はお盆に帰ってきて欲しいし、神も人間を見守っていて欲しいし、クリスマスはサンタさんに来て欲しいし、子供がいるなら大人は誰でもサンタさんになれるだろうし、人生は楽しいものであって欲しい。