3110133

エイス・グレード 世界でいちばんクールな私への3110133のレビュー・感想・評価

3.6
現代のビルドゥングロマンの佳作

インスタグラムやツイッタ—、youtubeなどのSNSを自己顕示と憧れを誘発させる(愚劣な)メディアだと批判することは容易い。だけれどもこの映画はそれを陶冶(Bildung)のメディアとして描き出す。

ケイラはyoutubeを通じて誰ともない視聴者(ほぼ0の再生回数)に向かって語りかける。自分らしく生きること、恐怖を感じながらも一歩踏み出すこと、なりたい自分になろうとすること。
劇中、その語りかけはケイラ自身に向かっていて、彼女自身がその語りかけに勇気づけられ、行動していくことが鮮やかに描き出される。ケイラの父が言ったように、彼女は親の知らないところで成長している。陶冶は誰かに教化されたり、教育されたりするのではなく、自らの力で歩み、経験することでなされていく。

そのとき誰もが経験する、変容の最中の不安、一歩踏み出す不安、他人と触れ合うことの不安、自分が変わってしまうことの不安に対し、彼女はyoutubeを介して自らを励ましていく。その語りかけの内容は自身も未経験で出来ていないことなのだけれども、それでもその方向へ行こうとする内的な力に導かれている。

youtubeでの語りかけを陶冶としての表現行為として見なしたとき、それが物語をつくったり、絵を描いたり歌をうたうことと同列にあることに気がつく。つまり、内的な力に導かれるようにして、フィクションを介して自らを励まし、行為させ陶冶するということ。
表現(ケイラの語り)はフィクションであってよく、それが現実性を持つのはそれを受けての行為にある。その表現はあたかも予言かのようにすら思われる。わたしたちは自らの表現(フィクション)によって世界と自らの関わりを調整し、陶冶していく。

現実の中で歩き出したケイラは、ひとまずyoutubeでの表現を必要としなくなる。最後の表現は高校卒業時の3年後の未来の自分に向かった手紙のような語りであった。彼女が今後再びフィクションを必要とするのかはわからない。だが、「大人になること」が表現を不要とすることとは考えたくないなとは思う。わたしはわたしに「なりつつある存在」である限りで表現し続けるから。

表現行為の一つの重要な意味が陶冶であると考えれば、この映画は現代の陶冶のメディアとしてのSNSのあり方を示してくれる。そしてこの映画自体もまた、ケイラに共感し同化する鑑賞者にとって、陶冶のメディアとなるのだろう。わたしたちはケイラに勇気づけられる。


それでもどうしても気になってしまった点。
1、ケイラって素直で良い子なんだよなということ。
陶冶がそのままスムースに社会化するのは幸福なのかもしれないが、少なくない人々がそこで現実社会との齟齬や軋轢に苦悩する。自らの内的な力の導くものすべてが、つねに社会にそのまま受け入れられるわけではない。だからこそわたしたちは社会に関与し、(自らだけでなく)社会自体をも変えていく必要に迫られるのだ。
ケイラはけっこうすんなりと自身の(社会的な)身の丈を受け入れてしまう。まあ社会との和解、親和性を保ちつつ陶冶していくってことなのだろうけども、それこそ理想的な市民観では。

2、ケイラは陶冶することのできる力と環境があって、恵まれてるなということ。
陶冶することって結構大変なことなのだと思う。彼女には表現するメディアがあり(macbookやiphoneやyoutubeをする知力や財力)、(学校でのヒエラルキーは高くないにしろ)行為をすることができる場がある。それを守り支えてくれる父もいる。
現実にはそれが叶わない人々は少なくないだろう。キラキラしたこの映画の背後に広がる、それが叶わない人々を薄暗い背景に押しやらないようにしたいと思った。それはもしかしたら公教育や福祉といった領域でのことになるのかもしれないけれど、芸術の大きな役割でもあるだろう。

シティズンシップ教育観と新自由主義の自己責任論はそういった人々を排除し置き去りにする。
この映画を見たあとのケイラを愛おしく思うのと同時に感じた強烈な罪悪感のような違和感はここにあるのだと思う。

この映画に映らなかった人々のことを思いながら、それでも確かにこの映画は現代のビルドゥングロマンとして優れているのだと思う。
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