Joao

生きたいのJoaoのレビュー・感想・評価

生きたい(1999年製作の映画)
5.0
なぜ、こんなにも飽きさせない?
それがこの映画を見終わってすぐの感想だ。

その理由は、大竹しのぶと三國連太郎のずば抜けた演技力と、新藤兼人のカメラワークだ。

別にどれも特別面白いセットではない。ただ床の上に座っているだけでも、この二人の俳優が画面の中にいるだけで、面白くて仕方がない。

新藤監督のカメラワークはあまりにもシュールで面白い。ヒキからヨリのカットは何とも滑稽である。酒の瓶の煽ったドアップと廊下を挟んだ奥の部屋にいる、ピンボケした大竹しのぶ。病院でのこれまた極端なヨリヒキを使った構図。斜めに役者たちを並べた構図。どれもこれも写真に撮って保存したくなる構図の面白さ。ここでもう、この映画の虜だった。

さらには、姨捨山の物語の、暗視カメラのような画面が非常に良い。この俳優たちの動きも、言葉遣いもまた絶妙。昔話の世界観を、的確な表現は難しいが「絵本の世界」のように表現する。俳優だけではない。セットも全く作られたようではないのだ。これも「絵本の世界観」そのものである。(重田さんが舞台美術を担当した映画はすべて観たいくらいだ。)

そこに登場する、津川雅彦演じる豪快な老人。姥捨山に捨てられる母。どの人を取っても、魅力的な演技に魅了された。

最後に。
物語についてだが、これは私たちの社会の縮図である。自分は考えたことがあるだろうか、社会から阻害される老人の寂しさ、虚しさを。命を捨てて御国のために戦っても、それか命がけで子供を産み育てても、そんなことは過去とされる。そんな過去は相手にもされない。

物語の最後に、娘は父を老人ホームから無理矢理連れ帰る。姥捨山の物語のように、背中に老いた父を背負って、娘は山を下りる。途中、父は姥捨山の本を老人ホームに忘れたことに気づくが、娘は「そんなもの要らない!」と力強く言う。この瞬間がすごく好きだ。あの暗視カメラのような姥捨山の世界から脱出するようである。

この姥捨山の物語と実世界の物語の結末が、最後に綺麗に一致する。

拍手喝采。
Joao

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