レインウォッチャー

バーニング 劇場版のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.0
わたしたちはどこにもないものばかりを信じている。

伊集院光氏がやっているラジオに「空脳アワー」という投稿コーナーがある。たとえば、確実なものと信じていた幼少期の思い出が、最近になって家族との会話からどこか辻褄が合わず、周囲の認識ではまったく違うエピソードだった、あるいはそのものがなかった…といったことがわかって脳が歪むような感覚を持った体験談を集めている。

この映画を観ていて、ああ、表現されているのはまさにこれかも、と思った。
人の記憶や認知の危うさ、つまりはこの世界に「ある」ように見える・聞こえる・触れるものはすべてわたしたちの頭の中にあるに過ぎないということ。考え出すと変なループにはまりこんでしまいがちな、この開かずの間に錆びついた鍵を差し込むような感じを映像で、しかもれっきとした物語のうえで表現するという、結構とんでもないことをやってのけている作品だと思う。

主人公が久々に再会した幼なじみの女、ミステリアスな富裕層の男、幼なじみが飼っている猫…この物語で彼が関わる人たちは、実はことごとく存在が希薄だ。主人公は彼らの言葉(「整形したの」「ビニールハウスを焼くんです」)や行動に「対応」するばかりで、常にどこか受動的である。
誰の視点でこの物語を見ればいいのかすら、意図的に曖昧にしていると思う。基本的に主人公視点から彼に共感し物語を追っているように思っていた頃、ふっと富裕男にスイッチしたりもする。そこでわたしたちは、もしかすると主人公自身ですらどこまで信用できるのだろう…という足元がぐらつく感覚に陥ることになる。彼らは誰一人として口からは本音(仮にそんなものがあるとすれば)をしゃべっていないようだ。

物語は中盤で不意に起こる幼なじみの失踪、という事件からミステリーのような様相に転がり出し、実際そのような謎にまつわる映画としても見ることができる。やがて主人公は富裕男を疑うが、その理由のすべては最後まで絶妙に状況証拠の域を出ないままだ。しかし彼はここでもどこか受動的で、まるで何かに流されるように、「そうせねばならないかのように」ある行動をとってしまう。
主人公が作家志望というのも象徴的であって、生活に不安ばかりが差し込む中からようやく何かを書き出した彼がどこか自分の頭で生み出した物語に結末をつけることを強いられたような、まるで囚われているような不自由さを抱えているとすら思えた。

ミステリー、サスペンスとして見るか、三角関係をベースにした奇妙なラブストーリーとして見るか、もやっとしたアート作品として見るか、あるいはもっと別の存在論に踏み込むような話として見るか。いずれにしてもハイコンテクストであり、どの帯域に自分をチューニングするかによって多層的な愉しみかたができる。なかなかそんな作品に出会えることは稀であり、贅沢な体験だ。

そしてこの作品を一段特別にしているのは、やはり幼なじみを演じたチョン・ジョンソだろう。鮮烈なイノセンス。どこか少女めいた部分を残している彼女は、ひとめで愛らしく何か不幸が起こってほしくないと純粋に思えると同時に、振り向いたらいなくなっているような、ひとときの夜露にも似た存在の危うさといつも共にある。彼女がパントマイムのコツを「そこにないことを忘れること」と言う、そのことばは映画全体を貫いているようだ。

陽が暮れていく中、マイルスの「死刑台のエレベーター」をバックに服を脱ぎ踊るシーンは間違いなく白眉であり、浮世離れした美しさだ。鳥のようなマイム、グレートハンガー(自由を求める人)の踊り。すべてが非言語の、行間に託される。
マイルス・デイヴィスはかつて「死刑台のエレベーター」の映画に即興でこの演奏をつけたという。その煙いトランペットと、世紀を超えて彼女はセッションをしているようにも見える。

夕暮れを日本では「黄昏時」と呼ぶけれど、その語源は「誰そ彼」、つまり暗くなり始めて道で会う人の顔がはっきりわからなくなる時間帯をあらわしている。この世とあの世の境目。
グレートハンガーにあこがれながらもそうはなれない彼女は、暮れる陽の中で踊りながらその衰弱する光と桃色のもやのなかに溶けていき、すでにそこにはいなかったのだろうか。