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ジュディ 虹の彼方にのmOjakoのネタバレレビュー・内容・結末

ジュディ 虹の彼方に(2019年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます


「オズの魔法使」でドロシーを演じた女優ジュディ・ガーランドが、47才で急逝する半年前におこなったロンドン公演を描いた伝記映画。本作で主演のレネー・ゼルウィガーがアカデミー主演女優賞を獲得。見応えのある映画でした。

 物語はジュディ・ガーランドが「オズの魔法使」撮影中のまさにその時から始まります。彼女はハリウッドで忙殺される日々に嫌気が差し、普通の女の子のように映画にいったりファーストフードを食べて楽しみたいとプロデューサーに申し出ます。しかし、彼はジュディに「君の歌は特別だ。セットを去りたいなら止めないが、ここにいれば普通の女の子が辿る教師や農夫の妻になる以外の可能性が開ける」と言います。彼女はハリウッドが売る”夢”という魔法を信じ、青春を映画に捧げます。
 結果、ジュディは「オズの魔法使」でスターになりハリウッド黄金期のミュージカル女優として輝かしいキャリアを歩みますが、その裏には強烈なコントラストとしての影がある。幼少期から疲れをとる薬として与えられ続けた覚醒剤に身体を蝕まれ、素行不良によりスタジオを解雇、再起をかけた「スタア誕生」が評価されますがオスカーを逃したことでふたたび私生活は荒れ、その間5度の結婚を経験し、晩年の彼女は子供を養うための十分な費用すら賄えなくなっています。かつて信じた夢はいつの間にかすっかり呪いに変わっていたんですね。

 この映画、一種の幸福論についての映画だと思っていて、ジュディ・ガーランドがした「オズの魔法使」に出演するという選択は果たして彼女を幸せにしたのか?という問いが映画全体を支配します。ジュディは映画のなかで何度も「疲れてるの。眠りたいわ」と言います。お金や名声や栄光あるいは芸術や表現するということそのものが、彼女から平穏や安心や普通の生活を残酷にも奪い去ったんですね。画面に映りつづけるのは十代の自分がした選択に苦しみ続けるジュディの姿です。
 
 ジュディにとって唯一の希望は再び子供との幸福な生活を取りもどすこと。その為にロンドンへ来てお金を稼ごうとしますが、結局また公演を台無しにしてしまい、信頼できると思った新しい夫にも捨てられて、ついに希望だった子供にも元夫との生活を望まれてしまいます。彼女は自分の思い描いた幸福の全てを失うのです。
 しかし、ジュディは最後にステージに立ちます。最後に歌う「By Myself」は誰かに幸福を求めるのではなく、自分自身で立ち上がり輝こうとする歌。その歌をうたう内に自然と彼女自身も鼓舞され、その活力は周囲に波及し、公演を見ている観客(そして映画を見ている我々)にも大きな感動を呼び起こします。まさしく音楽の持つ原初的な”魔法”がこのシーンにはかかっています。
 非常に連想したのは「フォードvsフェラーリ」での”4000回転の境地”。何かを好きでやり続けてきた人間にしか訪れない幸福な瞬間というのが人生にはあるんです。ジュディは死の真際にその瞬間を味わったとしたら、一般に考えられる幸福とは全く違う形で、彼女は自分を表現することが持つ根源的な歓びを感じていたんじゃないかと。
 なにかを選べばなにかを失う。人生には痛みがつきものですが、だからといってジュディ・ガーランドが不幸に生きた可哀想な人間であるという解釈もこの映画は拒否して終わるんですね。

 普通には生きられなかったジュディの姿を見ていると、LGBTのシンボルがレインボーで、それがジュディ・ガーランドに由来しているというのもわかる気がします。ジュディの近くにいた人は彼女を困った人だと見ていたし、なかなか他人に理解もされなかったでしょうから。だからこそ、個人的にはマネージャーのロザリンに共感できて、働き盛りの彼女はジュディに振り回されながらも最後はそっとジュディに寄り添います。実際にもっとロザリンみたいな人がジュディの側にいたらな、とも思ってしまいますが、そうゆう寛容な態度を養うためにも映画を観ることは無駄じゃないのかなと思いました。
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