ーcoyolyー

私は、マリア・カラスのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

私は、マリア・カラス(2017年製作の映画)
3.5
或るグレート・プリテンダーの記録。
「ボヘミアン・ラプソディ」を観ててカルメンのハバネラがかかった瞬間に「マリア・カラスだ!」って思ったんです私。カラスの歌なんかそれほど聴いた記憶もないのに直感で。自由を謳歌するボヘミアンの恋の歌、ここで使うならマリア・カラスの歌唱しかないって。フレディ・マーキュリーとマリア・カラスは大衆からの消費のされ方がよく似てるから、世間をうそぶいてるときにかけるレコードはマリア・カラスしかないって。求められるDIVAとしての立ち振る舞いと素のシャイで繊細で打ち震えている孤独な人間の落差、ここマリア・カラスを使ってフレディ・マーキュリーの複雑なパーソナリティを匂わせてるって。それで音源調べてて実際にマリア・カラスだと判明した時にとても嬉しかったです。外に出ている時のフレディにはカラスを、家にいて道化の仮面を外している時にはカバリエを流す。そうやって彼の二面性を表現してたの上手かったなと今でも思う。

でもこの二人、歌手としての個性は違う。カラスの声はテンションが強くて張り裂けそうで、でも張り裂けないギリギリのところで踏み止まって彼女の繊細な精神性が打ち震えて全ての感情を増幅させているような声。戦場に一人で立たされて孤独に戦っている女の声。気を抜いた瞬間に横っ面を張り倒される緊張感にあふれた声。

フレディの声は孤独じゃない。その場にいる全員に優しく語りかける声。絶対的な生への肯定、人間臭い、あまりにも人間臭い、圧倒的な伸びやかな人間讃歌。

私はカラスを生で観たことはありませんが、カラスに似た緊張感をもって孤独に舞台で戦っている人は生で観たことがあります。その人の名はシルヴィ・ギエムです。

そしてフレディと通底する人間の全肯定、圧倒的なヒューマニズム、人間讃歌を基調低音としている人も知っています。その人の名はモーリス・ベジャールです。

カラスやギエムの纏う研ぎ澄まされた厳然たる孤独、これ少し種類というか見せ方を変えて持っているのがピナ・バウシュなんだけど、男性で似たような孤独を感じさせる人が思い浮かばなくて女性特有なのかな、といつも考え込む。
フレディやベジャールの圧倒的な人間讃歌がどこから湧き出てくるのだろう、これはゲイ特有の感性なのだろうか、と考え込むのと同時に。

フレディやベジャールは性的少数者という境遇を人間愛をもって乗り越えたからああいう全肯定になるのかな、でも女性の性的少数者にそれを感じたことがないので、男性であるということが重要なファクターなのかな、など。
こちらはまだここまでは掘り下げられるのだけど、カラスやギエムやピナの孤独、それは私も持ち合わせているのだけど、その源泉がうまく掴めない。女性特有と言い切っていいのかわからない。でもどうしようもなく纏わりついてるそういう孤独は確かにある。

40に差し掛かった頃からカラスは声を失い始める。歌姫にとって唯一絶対の声を。そして恋も。「私は自由を謳歌する女」と語るこの頃のカラスの顔は全く自由じゃない。あらゆる呪縛にがんじがらめになっている。胸が詰まる。今現在言葉を奪われている私には、彼女の追い詰められ方はほんの少しだけわかる気がする。
私には言葉しかない、彼女には歌しかない、それが剥奪される。居場所がなくなる、生きる場所が。声が出ない。居場所がない。声と恋以外は全て手にしているのに、たましいが奪われてしまうと他のものには何の意味もない。どうやって生きていいのかわからない。

40過ぎて初めて自分そのものを奪われてどうやって生きていいのかわからなくなる、辛いだろうなと思う。山の登り方は沢山教えてくれる人がいる。けど、彼女はその山を誰も登ったことがない頂点まで登り詰めてしまった。登り方を教えてくれた人々もそんな高いところからの降り方は教えることができない。誰も知らないのだ、そこから見えるものも、そこから降りるために捨てるべきものと手放してはならずに必要なものも。

それでも彼女は愚直に降りてこようとする、不器用に自分の業績を畳もうとする、どこまで降りられてるか誰もわからない下山道を孤独に。

1977年9月16日、彼女は下山の途中で突然幕を下ろす。

その日は私の一歳の誕生日だ。
でもまあ私のことは割とどうでも良くて、私と同じ生年月日を持つ当代きってのメゾソプラノ歌手、歌姫がいます。エリーナ・ガランチャです。

彼女と私の一歳の誕生日にマリア・カラスは亡くなりました。もし、私がガランチャを売り出すチームにいたら後1年!と下衆な地団駄踏んでただろうなと思います。
忌日か生誕が1年ずれていたらガランチャをわかりやすく「マリア・カラスの生まれ変わり」と売り出すことができたのです。
そんなことしなくても彼女は彼女の実力で今の地位を築いてますけど、マリア・カラスを思う時、私は一緒にエリーナ・ガランチャも思います。マリア・カラスの死と共に初めてケーキなんかを囲んで誕生日をお祝いされただろう同志のことを。
ーcoyolyー

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