糸くず

幸福なラザロの糸くずのレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
3.9
前近代的な農民の生活と現代のホームレスの生活を「聖人ラザロ」という視点でつなぐ離れ業をごくごく自然にやってのけたから、カンヌで脚本賞をとったのだろうけど、「幸福な不自由」と「苛酷な自由」とを対比させる危うさに無頓着な気がして、そこまでいい映画とは思えなかった。

つまり、自らの不自由な境遇に全く疑いを持たない「純粋」な心を持つ愚者の神聖さ、そして聖なる愚者の居場所が現代社会には存在しないことを描くことは、社会的な不自由を消極的な形で肯定してしまいかねないのである。

もちろん農民たちは「よい人」ではない。システムに抗う者を嘲り笑い、愚かなラザロをこきつかう。都市に放り出された農民たちの中で、復活したラザロに神聖さを見出だすことができたのは、アンドレア(アルバ・ロルヴァケル)だけである。他の者は、ラザロが昔と変わらない姿をしているにもかかわらず、彼の存在をすぐに思い出すことができないし、思い出しても「働けない役立たず」ぐらいにしか考えてない。しかし、農民たちは結局のところ彼を受け入れるし、彼の神聖さに目覚めていく。

では、都市で自由に生きる一般市民はラザロに神聖さを見出だすのか。彼らは誰一人としてラザロに神聖さなど見出ださない。修道女でさえラザロを教会から追い出すのだから、銀行に集まる客がラザロの神聖さに気づくはずがない。汚ならしい見た目、「武器」を忍ばせたポケット、「聖人」どころか「狼」ではないか。実際は、彼を見た目だけで判断してあれこれ騒ぎ、彼に悪意がないことがわかった途端に牙をむく銀行の客こそが「狼」なのだが。

かつて貴族に支配されていた元農民は聖人に気づくことができるが、現代の都市に生きる一般市民(=わたしたち)は気づくことができない。このような対比は、「昔はよかった」というノスタルジーと紙一重である。確かに、わたしたちは神聖なものへの敬意を忘れがちである。しかし、だからといって、不自由な社会に戻ることはできない。今を生きるわたしたちの苛酷な自由を豊かなものに変えていくこと。そうすることでしか、わたしたちは聖なるものへの感覚を取り戻すことはできないと思う。
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