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幸福なラザロの3110133のレビュー・感想・評価

幸福なラザロ(2018年製作の映画)
4.6
優れた芸術的知性による思考。エンドロールの歌は救済。

多くのメタファーがとても複雑に絡み合っている。
メタファーの大部分が新約聖書由来だろうから、それに明るくない私が見る限りではほとんど読めていないのだろう。気がつきもしていないかもしれない。
それにそれらのメタファーは解体され、ねじれ、複雑に絡み合っているのだろうから、直線的に解釈が可能でもない。
だとしたら、「正しい解釈」をひとまず手放して、誤読も許容しながら物語を紡いでもいいのではないかと思わせてくれる。

それは、この物語が、ラザロに聖人を見出してしまうことが、もしかしたら誤解かもしれないということを否定していないことからも根拠づけられるだろうか。
具体的に言えば、登場人物たちは「認識できるもの」しか認識していない。
なぜなら、それを望んだから。
例えば山の稜線に赤く光る鉄塔の照明が、「外部」が村に流れ込んできてはじめて認識されたように。小川に過ぎない川が、村を断絶させる絶対的な不可侵なものと認識されていたように。
その「認知の歪み」のようなものは、村人だけではなく鑑賞者私たちにも当てはまる。
ラザロが聖人かどうかは確かめようがなく、「聖人」と見なされる。
その誤認かもしれない認識は、複数のメタファーによって方向づけられている。暗喩は恣意的な解釈によって特定の図像を描き出させるのだろう。

私は青年ラザロに聖人ラザロをみる。ラザロに愚鈍をみるのも認識のひとつに過ぎない。彼は多くを語らないのだから、彼の精神の豊かさは推し量るしかない。語らないからなにも考えていない、感じていないと見なすのは暴力的だろう。
二つの言葉の前で立ち尽くす彼は、あるいはあきらかな愚鈍として描かれているのかもしれない。けれども、ヘルダーリンの中間休止を想起したい。立ち尽くしたその「間」は決定的に物語を動かす何かだった。

聖人を直接ではなく描き出す手法は星座的布置であろうし、そこにメタファーが使用され、かつメタファー自体が複雑に編み直される思考は、優れた芸術的知性に基づく思考と言えるだろう。

彼は他人に使用されるが、彼は彼の身体を使用し、世界と関係を取り結ぶ。オオカミは世界との密約の使徒か。
彼らはオオカミの遠吠えをミメーシスする。片や聖人となり片や小型犬を抱く狼少年(youtuber!)として描かれるのは皮肉だろうか。
世界から幾重にも疎外された社会で聖人(オオカミ)は無力だった。自然に帰れと解釈するにはあまりに安易のように思うが、だがその疎外から離れ、再び密約を結びたいと願ってしまう。
ドイツにクラインガルテンが多いのも密約のための小さな領土を守ろうとしてだろうか。イタリアに密約のための領土はどれだけ残されているのだろう。啓蒙主義と資本主義の冷たいアイロンはいまも世界の襞を均一にのばし続けている。

映画を見終えたあと、ラザロを呼ぶ声がずっと鳴り響いている。村人みながそれぞれの声で呼ぶのだ。「ラザロ」とは密約のための小さな領土で唄われるリトルネロ。

エンドロールの歌は、かつての村で歌われたかもしれない、ラザロのための救済の歌だろう。村の人々の生活の営みの音とともに、歌はうたわれている。
劇中で一度だけラザロが涙を流したように、深いところから涙があふれた。
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