私の知らない誰かの記憶を走馬灯のように駆けて見るようで。
映画は1時間半にも満たないからこの手の作品にそれが何を意味しているのかと鑑賞前から気になっていたが見て納得、則ちその時間は埋められないし、勝手に創作して埋めてもダメなのだ。
"間合い"
この作品で言うそれは2人の人生であり、2人が生きた時代であるのだ。
戦後、ソヴィエトという力の傘の下で共産圏の色が濃くなりつつある1949年に国家掲揚を目的とした舞踏団が設立される。
その中に暗い過去を持つズーラと舞踏団の音楽面を指導するヴィクトルという2人のラブストーリー。
いわゆる冷戦期の"cold war"に翻弄されパリとポーランドの間で引き裂かれる。
ここでの対比にジャズと民族音楽をはっきりとぶつけてくるところなんかは強烈な衝撃を覚える。民族衣装に身を包んだ女達がこれでもかと言わんばかりの熱唱でハーモニーを奏でたかと思えば、「ラ・ラ・ランド」にも通ずる様な楽器演奏のシーンに切替りアート・ブレイキー、チャーリーパーカー、マイルス・デイビスが吹いてた様な50年代風ジャズが洗練されて奏でられる。
(しかしながらラ・ラ・ランドとは全く異質のアプローチで寧ろこちらの方がいわゆる"ジャズ"である)
監督自身がピアノ演奏を趣味としてるだけあってこの辺りの描き方は面白い。
今作で意外と印象的だったのは「シネ・ジャズ」を描いた点。
フランスではこの手法が画期的且つ1つの技法として醸成されており、このストーリーが形づくられてく過程で、その一片を監督は凄く描きたかったのではないだろうか。
2人に共通する音楽は映画を飾る単なる装飾ではない。
2人の物語が数年の後に転調する。
パリ
そこで数年ぶりの再会を果たす2人。
埋められなかった溝と互いの不足を補うかの様なセックスは実に官能的だったが同時に哀切の感情にも流された。
果たして2人の幸せはここから続くのかと。
いつしか2人は音楽面でもパートナーになる。
ここで彼女が歌う「2つの心」があまりにも美しく悲しみが去来する。
しかしこれ程愛を誓った男女なのに、一瞬で終わる様な亀裂が走る。
この「2つの心」のフランス語訳がきっかけで。
そんなことで?
でも愛って時に簡単な程、「そんなもの」
言葉や行動に翻弄された2人には余りに大きな影響を与えてしまったのだ。
(フランス語版の「2つの心」がまた切ない。)
時代に悪戯に振り回される過程を見ながらまた1つの言葉がよぎる。
確か…。
ポール・マッカートニーの曲に「tug of war」なんてあって。
その曲はストーリーとはなんら関係無いけどそれは押したり引いたりしてる歌詞で。
ついでにその"a tug of war"
とは主な意味として→綱引き・主導権争い
のことを言うわけだけどこの作品のある種の歪さに近くそれでいて熱い熱情を禁じえない愛に落とす影(2人のすれ違い、祖国の問題など含めて)がまるで綱引きの様に押され、引いてと2人の愛は行き違いを見せる。
劇中に流れる歌のリフレインの様な波紋は広がらず、エンドクレジットに淡々と流れるゴールドベルグ変奏曲の様に変化に富んだ2人の愛の旅路というか末路というか。
切なくて切なくて仕方なかった。
批判覚悟で敢えて書くが、もう少し余韻の残し方或いは感じさせ方があっても良かったのでは。
コラージュの様に貼り重ねた"誰かの記憶"だからこそ説明的なストーリーを省いた因果とはいえ、モノクロームに飾られた映像だけに今や過保護的とも捉えれる説明表現をあえて言語や音楽、冷戦という第二次世界大戦とも違う哀しみや隔たりのそれらは、寧ろ語り尽くせぬほどに贅沢なこの映像表現をもってすれば容易く思えたのだが。
それにこのモノクロームは白黒?否、極彩色ですよ?
だからなのだ、もう少し浸っていたかった。
でもオススメしたい、この作品。
モノクロームに潜む哀しみと愛に纏わる話にもっと触れて、感じて、浸ってみて。