YasujiOshiba

ドッグマンのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ドッグマン(2018年製作の映画)
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U次。23-20. ようやくキャッチアップ。これはいい映画。『ピノッキオ』へのウォーミングアップだったという。

興味深いことに、この映画の主役は最初、後の『ピノッキオ』でゼッペットじいさんの依代になるロベルト・ベニーニを考えていたという。ところが思うような映画に仕上がらない。そこで、あまり知られていなかった俳優マルチェッロ・フォンテを主役に抜擢。粘りに粘って出来上がったこの作品が大成功。そのフォンテがなんと主演男優賞に選ばれ、プレゼンテーターがロベルト・ベニーニという感動的なセレモニーとなる。そのシーンがこれ。
https://www.youtube.com/watch?v=cZ1TIaYVHWI

そのフォンテがよい。『ドッグマン』の映像の特徴は、ロングショットとクローズアップとトラヴェリングと手持ち撮影を必要なところで効果的に組み合わせてアクセントを生み出してゆくところにある。一方の極にあるロングショットが映画のロケ地となったカステル・ヴォルトゥルノ(ナポリ近郊の海岸の街)の荒廃したモダンな風景にまるで西部劇のような荒涼とした情感を与えるなら、もう一方の極にあるクローズアップは、フォンテの大きな瞳に優しさと悲哀、弱々しさと思いがけない激しさ、そして深い深い闇を救い出してくれるのだ。

フォンテは、自分と同じ名前のマルチェッロという登場人物を演じるのだが、その背後には「マッリャーノのドッグキーパー」(er canaro della Magliana)と呼ばれたピエトロ・デ・ネグリという実在のモデルがいる。デ・ネグリは1988年に彼を虐めていたジャンカルロ・リッチを拷問したうえで殺害し、逮捕されて16年の刑を勤めて出獄、まだ存命だという。
https://it.wikipedia.org/wiki/Pietro_De_Negri

『ゴモッラ』のときも思ったのだけれど、ガッローネは実際に起こった犯罪や事件などから着想を得て、力強い映像を撮るのだけれど、同時にそこに映画的なフィクションをふんだんに盛り込む。どうしようもない悪党を描きながら、そこに愛らしさを捉え、どうしようもなく荒廃した風景を映しながら、まるで西部劇かSF映画のような、はっとする美しさを現前させるのだ。

イタリアの評論家はそれを「醜さの美学」(Estetica del brutto )と呼んだけれど、ソッレンティーノの「美」と対極にありながら、その「美」を補完するようなものをガッローネの作品は持っている。やはりこの二人はすごいわ。モレッティと合わせて、今のイタリアを代表する「三銃士」とも呼ばれたけれど、あながち誇張ではないかもしれない。

この映画はスクリーンで大画面で見るべき。小さな画面でみたら台無しなってしまう作品。ラストのクローズアップからロングショットのジャンプなんて最高によかった。

あそこにあるのは、善とか悪を超えて、生きることが結果的にもたらしてくる悲哀。イタリア語ではよく「 Per la forza delle cose」(ことの成り行きの力によって)というけれど、その挙げ句に宙吊りになった瞬間をとらえたのがあの映像。

この感覚は覚えていると記憶をたどれば、ジャンニ・アメリオの『小さな旅人』(1992)のラストシーンに感じたものと同じだ。ロングショットで捉えられる広場。車から小さなロゼッタとルチャーノの姉弟が出て来る。彼らのためを思って遠回りをして、誘拐罪を押し付けられそうなカラビニエーリ・アントーニオは車の中で眠っている。夜明けの光が広場を照らす。道端に座り込む弟。そばに寄り添う姉。その背中をとらえるショットには、大人たちの身勝手さと暴力にもかかわらずまだ優しさが残っているのだけれど、それは深い深い悲しみに沈みそうなところで宙吊りになっている。

この映画のマルチェッロ・フォンテにも、そんな優しさがある。殺すつもりはなかったのだ。けれども殺さなければならなかった。殺してしまったのだから、仲間たちに再び認めてもらいたい。彼だって、パスを受けボールを送り出すだけではなく、シュートを決めて仲間に祝福されたいのだ。しかし、夜はまだ明けたばかり。時間を宙吊りする光のなか、マルチェッロもまた座り込み、ただ待つしかない。
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