ーcoyolyー

マイ・サンシャインのーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

マイ・サンシャイン(2017年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

ミネアポリスで黒人が殺されて全米に飛び火している今、ロサンゼルス暴動が題材の作品を観てみました。安定のcanal+資本絡み作品だったのでやっぱり私好みの作品になってた。
と言ってもロサンゼルス暴動って頭の片隅になんだかあったような気がする、くらいの茫洋とした記憶をかすかに感じてるくらいでしかなくて、初っ端からびっくりした。黒人少女を韓国系女性が殺すって、え?って。ああこれ白人と黒人の問題じゃなくて全人種の問題として描くんだなって。

薄ぼんやりとした記憶が少しずつクリアになった。思い出した、私はこの暴動を学校に行く前に新聞で見た。どんな写真がついていたか思い出した。LAで黒人が暴れて火をつけた?韓国系住民が発端で?なんでここで韓国人出てくるの?と思っていたのが蘇った。

LAにおいて黒人は弱い。そしてアジア系住民も弱い。社会の底辺で弱き者同士が歪みあって衝突している。これは「バハールの涙」でIS戦闘員となった男とヤジディ教徒のクルド人女性の間に起こったことと同じものだ。小さなファクトではない、根本の原因は彼らの境遇に関心を持たない白人社会にある。でも白人は見ない、見なくて済むから見ない。出くわしたとしても臭い物に蓋をして鼻をつまんで、すぐ忘れてしまう。

この映画にダニエル・クレイグ以外、人間性が描かれている白人はいない。ダニエル・クレイグ以外の白人は警官かモブという記号しかない。彼がなぜ黒人とアジア人しかいない地域に住んでいるのかはわからない、けど、映画の意図としてはわかる。彼がいないと白人はこの物語に入っていけないのだ。だからダニエル・クレイグはヒーローとして存在している、黒人を助けるヒーローとして。ヒーローじゃないと白人はこの映画観ないから、そうやって白人に媚びた作り方をしなければならない。

私はアジア人の女だから、LAでアジア人の女がそれまでどうやって生きてきたかを想像する。過剰防衛であろうと黒人少女に発砲しなければならないと、そうしないと自分が殺される、と感じる経験を重ねたんだろうなというのも想像できる。そしてそれは黒人として生まれ育った人も五十歩百歩の何かがあるんだろうとは想像ができる。

彼らが怯えて潰し合わなければならない境遇、そこに至るまでに誰も助けなかった境遇、暴動が起きて初めて「暴力反対」とか掲げ出す残酷さ、そういうものはここで直接的に描かれてはいない、でもあるのはわかる。

何故ここに至るまで誰も救えなかったのか、そんなの現代日本でだって日常的に行われてる無視や無関心の態度を知ってれば嫌になる程わかる。
すぐ隣人に困ってる人がいる、なら助けなきゃ、と動ける人は稀だからだ。
誰にでも手は差し伸べられない。でも、友達にはできる。友達を見殺しにしない、そういう小さな態度の積み重ねで世の中は変わる。

私を見殺しにするような友達はいらない。そんなの友達じゃない。でも助けてくれた友達もいる、そういう人はかけがえのない友達になる。人種も性別も性的指向も何もなく、友達は友達。私は黒人の友達が黒人というだけで酷い目にあったら駆けつけて自分のできることをする。それが韓国人の友達でも同じことをする。それが香港人の友達でも日本人の友達でも同じことをする。

この映画の中にはいろんな黒人がいる。友達になれそうな人もなれなさそうな人もいる。それは韓国人でも日本人でも他の国籍でも人種でも同じこと。人種や国籍で人を見ない、どこにでも友達はいる。
人種なんかどうでもいい、私は私の友達が傷つけられることが許せない。ミリーはミリーだし、ジェシーはジェシー。私の友達になれそうな人たち。私は私の友達の傍に立つ。人種なんかどうでもいい。
ーcoyolyー

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