青いむーみん

⼗年 Ten Years Japanの青いむーみんのネタバレレビュー・内容・結末

⼗年 Ten Years Japan(2018年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

十年後の日本を描いたSF短編5作品のオムニバス。どれも強弱はあれど未来の負の側面が押し出されていてディストピアモノのように見える。その観点から各作品を読むと以下のように感じた。
『PLAN75』は合理化の果ての負の側面が強く、そこに居心地の悪さを感じさせて「人間らしさ」をあぶり出す。
『いたずら同盟』は人間がAIに選択を制御されるという生き辛さを感じさせる負の側面が強い。それに抗う子供が「人間」の大事なものを強く主張する。
『DATA』この作品がもっともフラットなところを目指していて、もっとも現在との高低差がない。逆に言うとこのシステムがなくても我々は今までそうやってきたことにも気付かされる。そうやってきた人間の我儘さが描かれていてその我儘さを自覚して成長する普遍的な物語。
『その空気は見えない』ザ・ディストピア。負で覆われた世界でも子供は希望を夢見る。終幕後のミズキのことを考えると大人の責任を糾弾しているかのような作品にも思える。
『美しい国』今の道を日本が歩いていくとこうなるのは必然。その時君は何を思うか?と、そうなる前に警鐘を鳴らす。最も観客に委ねられた作品。
ある制度、システムが導入されるのが4作品。その選択さえ許されなかったのが1作品。台湾版未見なのでその文脈を知らないからかもしれないが、バカみたいにポジティブでカラフルなユートピアで、それでも人間大して変わんないなと思うような作品があっても良かったかなとも思ってしまう。ないものねだりなのかもしれない。
以下各作品に感じたことを記す。

『PLAN75』監督・脚本:早川千絵
姥捨て山よりもスマートで無情。看護師がなんの感情もなくシステマティックに首にシールを貼るのはもう慣れてしまったからだろうか。死刑でも最後のスイッチを押すのはメンタルへの負荷が高いと聞く。その負荷すらも感じなくなる十年後の恐ろしさ。恐らく、20分ほどの短編でそこまで描く余裕がなかったのだろうけれどそこの葛藤はスポイルされるべきではない人間的な部分だと思うのでもう少し長い作品で描かれているのを見たい。最後のシーンは低所得老人たちの最後の場所。何かの装置の音が鳴る。監督に伺ったところ、腐らさないように空調を効かせた音だとのこと。劇中PLAN75を受けた最初の低所得老人の死から3,4年経過しているので(子供の成長を目安に)よりスマートになり全自動化されたのかと思っていた。それならば人を殺す負荷が減る。負荷が減れば考えることはなくなる。そうやって我々はより人間離れしていく。老人というだけでなく低所得者という存在を描きたいという監督の意向が冷ややかに反映されて、低所得者を救うシステムに投資はしないが葬るシステムには国はお金を注ぎ込むのだというエンドなら尚更エグみが増して好みだ。

『いたずら同盟』監督・脚本:木下雄介
AIにコントロールされる人生。可能性あふれる子供たちが最初の被験者。AIに従う子供と、抗う子供。AIは子供に死を知らせない判断を下すが、死を知った子供たちをサンプルとしてアップデートすると彼らを肯定していた。アップデートは本来アップデートするものを用意した状態で行われるのでアップデート中に起こったことがその回のアップデートにフィードバックされることはない。ここは映画的嘘のよう。短編映画をキレイにまとめるための小さな嘘は悪いことではない。
この物語では大筋でAIは自由を奪う悪者のように感じるが最後のアップデートで彼らを肯定することでそれほど悪いことでもないのかなと思ってしまう。それはAIとの共生の可能性を示しているように感じる。だが劇中のように人間をロボット的に扱うのは多様性を認めようとする今の世界の方向性とは真逆なので、差別主義者が国の長に点在し始めた現在から見た未来ということだろう。ただその先に使えるロボットができたならば人間をロボット化することはもはや不要。そう考えるとこの世界はまだ発展途上。いずれこの制度も廃れ、この制度に振り回された人達も、ネクストジェネレーションが現れた頃にはロボット同様に扱われ、そう扱われても何も思わない非人間人間になってしまうのではないだろうか。

『DATA』監督・脚本:津野愛
これは未来だけの話ではない。情報だけで物事を決めつけてしまう我々の都合のいい思考への警鐘。考えてみれば『散り椿』だってそうだ。その解釈で大きく行動を変えてしまうのにその精度は?と疑問になる。悲劇のヒーローを気取りたいだけなのかとも思ってしまう(あの物語はその悲哀を描いているからいいんだけど)。ただDATAだけでは確かに文脈が体験者個人によるところが大きいから精度がブレるのだが未来であればその人物の行動、思考パターンなど、当事者の文脈まで可視化されて精度は上がるだろう。だがどこまでいってもそれを見るのは他者である。そこに解釈が介在するのはどうしようもない。だからこその「その人のことを知る権利なんて誰が持っているのか」ということであり、その不可能性であり知ったつもりになる傲慢さの知らせだ。どんな思いも他者に伝わるときにはスポイルされるものがある。そのことを知っておかないと自分も傲慢な人間になってしまう。そもそも今目の前にいる人と人とのコミュニケーションですら齟齬が生まれるのは当たり前なのにDATAだけでなんてとんでもない。そこでスポイルされるものの顕在化を可能にするということは人間の人間らしさそのものを捨て去ることになるかもしれない。
冒頭の朝のシーン。新しい義母になる予定の人から食事に誘われていると聞いたときの舞花の一瞬逡巡した間で杉咲花はやっぱりいいなぁと思わせてもらい、大人と子供を行き来する年頃の舞花のけじめが恋のエピソードと共に可愛らしく描かれていて好きな作品となった。

『その空気は見えない』監督・脚本:藤村明世
随一のディストピアらしいディストピア。閉鎖された世界で子供が自由を求めるという意味では『いたずら同盟』と近いがこちらの方がシビアなのにもかかわらず「反発」ではない子供の気持ちの純度が高く、その純度の高さがファンタジックに演出してくれる。カエデがイマジナリーフレンドかどうかというのはどちらでもいい。ただ彼女がミズキにとってのメンターとなって導いた先がつかの間の希望であることを鑑賞者は知っている。だからラストシーンの画を見ると希望のような明かりに照らされているようだが、終幕後のミズキがどうなるのか誰も想像したくないだろう。では、カエデはミズキの欲望に付け込んだ悪魔だったのだろうか?ただ純粋にミズキの希望を叶えただけと言えるだろうか?ここは答えがないところだと思うので監督に聞いてみるべきだった。人ならざる者のような浮遊感はあったのでただそういう人がいたということではないと思うのだが。
鑑賞直後で咀嚼不足であったり、急いでいたのもあって大して話せなかったのが残念。母親が子供に説明していないのはまだ大人が現実に向き合えていないということなのかということも・・・ああ惜しい。

『美しい国』監督・脚本:石川慶
「来るべき時が訪れたら君はどうするのか」と問うてくる。仕事をなんの感情もイデオロギーもなくただこなしていると知らない間に意志とは反するものに加担してしまっているかもしれない。これも人間のロボット化の一つだろう。戦争にネガティブな気持ちを持っている天達はそのイデオロギーを広告にアンチテーゼとして込めた。断らずにバレないように大胆にやってしまうところがすごくアーティストらしくカッコいい仕事の仕方で憧れる。彼女の放つ「ゲームで人は死なない」という言葉はゲームの影響で、アニメの影響で、が常套句のメディアに対しての物凄くシンプルでわかりやすい至言。そんなメディアの幻想を遥かに超えた現実がやってきているということを示しているのだろう。だが渡辺はまだ分かっていない。ミサイルの通過、徴兵の広告、天達の父親の話、バトンの受け渡しを素通りして、最後に知っていた人の徴兵を受けて初めて感じるのだ。我々戦争を知らない世代の無防備さはずっと懸念され続けてきた。「戦争はいけない」と言っても「お前も戦争をしたことがないんだからわからないだろ?」という反発が力を持ってしまう時代がやってきている。

どれも20分程度の短編ゆえ余白の多い作品になっていることが功を奏していて鑑賞後も考え続けられるものとなっている。
これも聞きたかったことだが誰がなぜこの順番にしたのかを是非とも聞いておくべきだった。きっとそこにも人の思いがあるはずだ。