レインウォッチャー

天使のたまごのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

天使のたまご(1985年製作の映画)
4.0
ため息と鼻血が同時に出る…。

稀代のアニメーション作家・押井守氏、伝説のOVAはなんと「語り直し創世記」。いや、あまりそのイメージを固定するのはよくないのかもしれないけれど。説明も台詞も極端に省かれた、映像詩に近い作品だ。
しかし、情報は雄弁に画として配されて、余白をたっぷり残しつつも物語を語っている。決して意味不明、自己満足な作品なんかではない。

終末感と死のにおいに満ちた極北のような地で、ある卵を抱えて独り守り続ける少女。ある日彼女は銃を携えた少年と出会い、やがて雨が降り始める。卵の中身とは何なのか、2人は誰で、どこから来たのか。

まずは何より、天野喜孝氏(FFシリーズのキャラデザ)の「あの」絵が動いているぅぅゥ、という大僥倖案件。退廃的で、同時に抗いがたくエロティック。件の少女も、目は死んでるし髪はざんばらなのに、決定的に可愛いのだ。ああ、この世界にコンディショナーがあったなら。あとあのバックベアード兵馬俑なに?

そして繰り返される水の表現。滴り、染み渡り、降りしきって呑みこむ。生命の苗床でもあり、最後に帰る場所ともいえる水は、言葉少なな今作の中でもう一つの声、もう一つの音楽として機能する。
それらはタルコフスキーやパラジャーノフの世界を思い出させ、中でもタルコフスキーの『惑星ソラリス』や『鏡』からはかなりダイレクトな引用と思しきカットを見つけることができる。(あと、鈴木清順の『陽炎座』も?)

何を隠そうわたしは「映像の中の水」フェティシストなので、悶えることしきりなのである。そういえば、今作より前にあたる『ビューティフルドリーマー』でも後の『GHOST IN THE SHELL』でも、水面や水音を使った表現が冴えていたけれど、辿れば源泉はこんなところにあったのか。

また、たびたび仄めかされるセクシュアルなイメージ。
少年が少女に出会う際、なにやら有機的なデザインの肉色の戦車に乗って現れる。それに、背負った試練の十字架にも見える銃。これらはやはりペニスをイメージさせるところ。
対する少女も、卵を服の中に抱き込んだ様子はそのまま懐妊だし、赤い水を捨てる様子は月経かも。無数に集めるまるく大きな瓶は子宮、中に入れる水(やがては町全体を覆う)は羊水に結びつく。

とどめに、終盤には少年が銃をあるものに突き立てるのだから、仄めかすっていうかむしろあからさまか。ええい言い逃れはできんぞ、そこになおれ!(お前が)
何にせよ、それをきっかけに少女は「裂け目」の中で成長した自分の姿に出会うし、生命が再び巡りだす。

彼らが何度も交わす「あなたはだあれ」「君は誰なんだい」という言葉は、時が回り尽くして方舟が役割を忘れ去られた最果ての場所でも、根本はこの好奇心から始まるんだ、いくら先延ばしにしようと始まらずにはいられないんだ、と言われている気がしてならない。

同時に彼らは「誰かの記憶でしかないのかもしれない」という存在の不安を抱えてもいて、それは今作そのものの視点の揺らぎに繋がっている。
しかし、たとえそうであっても意味がないなんてことはないし、生と死が幾億と繰り返す遥か過去もしくは未来に、この場所は確かにあったと想像させる。