ヤマダタケシ

プラネティストのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

プラネティスト(2018年製作の映画)
1.5

このレビューはネタバレを含みます

2020年7月29日 ユーロスペース

【監督が小笠原好きなんだなぁ】
 最後まで観て感じたのは、一回も映画に映らないけど、この映画の監督が本当に小笠原が好きなんだなぁということ。で、小笠原好き、小笠原が凄いのは分かるのだが、それが映画としてまとまっているかという正直微妙なところがある。
 今作は様々な俳優、アーティストが小笠原で過ごす様子をいくつも描き、最終的に彼らを案内する島のおじさん、彼がこの島で暮らす理由、祖先の話になる。
 ただそれぞれのエピソードがまったくバラバラで、それらを通して語られるはずの小笠原の小笠原性はいつまで経っても深まって来ない。
 それはセリフでは語られるし、出てくる俳優たちも口々に「小笠原がすごい」と言う。しかし、肝心のそのすごさは観客に伝わってこない。恐らくここで彼らが感じているスゴさは映画だと『海獣の子供』や『グランブルー』を観る時に観客が感じるようなものに近いのかもしれないが、この映画はあくまでも人を映すドキュメンタリーであり、観客が直接それを感じることは無い。

【GOMAさんのエピソード】
 唯一それを感じさせるのはGOMAさんのエピソードである。ここでは小笠原という場所を通して記憶障害を持つ彼が新たな生き方の可能性に目覚めて行く過程が語られる。
 記憶が続かない障害を持つGOMAは小笠原でクジラとセッションすることによって、記憶では無くその場の感覚による音楽を発見する。それは頭では無く身体に刻まれた記憶にアクセスする演奏であり、それによって主に頭の記憶による障害ゆえに音楽を続けることに難しさを感じていた彼は救われる。そこには確かに彼の気づきを通して小笠原のスゴさが映っていた。
 それはある意味で、ホドロフスキーとひとつのアート活動を行う事によってそれぞれの悩みが解消されていく『ホドロフスキーのサイコマジック』に似ている。
 このエピソードが最初に来るので、こんな感じでそれぞれ悩みや生きづらさを感じている人が小笠原を訪れることによって目覚めて行く、それらを通して小笠原の小笠原性を浮き彫りにするのか!と思ったらそうでは無かった。

 その後に来るのは単純に豊田組の俳優やゆかりのあるミュージシャンたちであり、なんか本当に単純に彼らが観光している映像が続くのだ。正直、カモメと戯れる渋川清彦やがけでドラムを叩く中村達也を見てもそこから彼らを通して小笠原を感じる事は少ない。
 もちろんその中にも見所はあって、窪塚パートは彼の魅力によっておもしろい。息子以上に少年のようでありながら、ちゃんと伝えたいことがある。でも息子は年頃だからあんまりかまってくれないって感じの親子関係や、彼が口にする「僕も一回死に掛けたんですけど」っていう不穏な発言、貝殻を耳に当てた後の「プラネティスト イズ ネバーダイ」なんかはただの親子の旅行でしかない映像を、ちゃんとその窪塚の窪塚性によって成立させている。ただそれは窪塚洋介が魅力的なのであって小笠原の魅力では無い。
 結果、最初のGOMAパート、おじさんのエピソード以外は実は小笠原を語っておらず、正直作品の語ろうとしている事からすると無駄なシーンに見えてしまった。その後ろにいるのは小笠原に魅せられた豊田監督であり、なんとなくその監督が島に友達呼んだついでにカメラ回して見たっていう感じであった。