湯っ子

ジェニーの記憶の湯っ子のネタバレレビュー・内容・結末

ジェニーの記憶(2018年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

⚠️センシティブな内容に触れています。ご注意ください。





性犯罪における「グルーミング」という行為は、ここ数年でニュースなどで取り上げられるようになったように記憶している。大人が性的虐待を目的として、子供に近づき信頼を得て、子供の羞恥心や罪悪感を利用して関係をコントロールする。こうして文章にしただけでも、なんとおぞましい…と震え上がる。
何度も話題になっては消えてを繰り返すジャニー喜多川やマイケル・ジャクソンの性加害。それは芸能界などの特殊な世界だけではなく、私たちの身近にもたびたび起こる。

私はこれまでにふたりの友達から、同じような経験を打ち明けられたことがある。まだ彼女たちにそんなできごとが起こってからまもない、10代後半の頃。彼女たちを占めている感情は怒りではなく困惑だったように思うし、話を聞いた私の感情も同様だった。「ひどい奴!どうしてその時嫌だって言わなかったの?」とは思わなかったし言わなかった。
私には信頼する大人からの被害はなかったけど、子供どうしのじゃれあいを超えるようなできごとが、その時までに二回あった。そういう時って、ただ呆然としてしまって何もできないんだ。なんなんだろうこれは、でもたぶんこれは大人に見られたら怒られることなんだろうな、とぼんやり思うのだけど、抵抗しなかった。今となったら「抵抗できなかった」なのだと思うけど、当時の感覚に忠実に思い出すと「抵抗しなかった」という表現になる。ここがとても難しいところのように感じる。
その頃は今のような性被害防止のための教育もなくて、「拒否できない私も悪いんだな」という、漠然とした後ろめたさが残った。こういうことは、大多数の女性が多少なりとも経験していることのように思う。

衝撃的な場面をぼかさずに描きながらも、出演した少女への細心の注意が払われているのは、作品を見ていてよくわかる。さらに、ほんの短いシーンではあるが、とても重要でとても難しい部分が、ドキュメンタリーのインタビュー画面で表現されているところにも深慮が感じられた。

自身の過去と向き合った監督の勇気を、心から讃えたい。記憶を掘り起こしたとき、そこにあるものが怒りと悲しみであることをわかっていても、立ち向かった強さを、心から讃えたい。
湯っ子

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