三四郎

アルキメデスの大戦の三四郎のレビュー・感想・評価

アルキメデスの大戦(2019年製作の映画)
4.8
「敗者の美学」非合理的で日本人にしか納得できない結末ではないだろうか。
冒頭のアメリカの戦闘機と大和の戦闘シーン。大和からの射撃がアメリカの戦闘機に命中し歓喜する日本兵たち。しかし、米兵は煙を上げながら落ちてゆく戦闘機から脱出し落下傘で海へ。そして戦闘中にも関わらず、アメリカの救助機が飛んできて、海へ浮かんでいる米兵を引き上げ、砲撃が飛び交う中を救出し去ってゆく。それを目撃した日本兵の呆気にとられたその顔…。日本軍はアメリカ軍に「戦争」で負けたが、日本軍がアメリカ軍に劣っていたのは、物量だけではなかった。一人の人間の「生命」の重さに対する考え方でも負けていたのだ。何も身体を防御するものがなく、ただひたすらアメリカの戦闘機に向けて撃ち続ける日本兵。彼らには死ぬことしか許されていなかったのだ。このシーンがあまりにも哀れで印象に残った。

美しいものは測りたい、測らずにはいられない主人公櫂直を演じる菅田将暉。彼のスタイル、つまり線の細さが、海軍の制服を着ていても軍人ではなく学者を思わせた。菅田将暉が極端に身体の線が細いことで、彼以外の軍人たちの体格が大きく頑丈そうに見えたのだ。故に一段と映画に現実味を持たせた気がする。
 
さて、軍部と財閥の癒着、軍内部における厳格な階級と派閥争い。組織とはこうならざるを得ないのか…。
主人公櫂直は、日本に失望し、日本を捨て、アメリカへ行こうとするが、しかし彼はやはり「日本人」だった。港で乗船し、見送りの人々に視線を落とすシーン。その人々の背後に焔が見える、廃墟となった街が見える、そして引き留めに来た鏡子令嬢からも焔が見える…。彼はそれに耐えることができなかった、その焔を振り払い去ってゆくことができなかった、日本を捨てることができなかったのだ。
軍人嫌いで戦争反対、一度は国を捨て、去ろうとした櫂は「数学がこの国を救う」と信じ、己の役割を果たそうとする。だが戦艦を見て「人間が創った美しき怪物」と言う櫂。彼はすでにこの最初の出会いで戦艦に魅せられてしまっていたのではないだろうか。櫂直と『風立ちぬ』の堀越二郎が私には重なって見えた。美しいものに魅せられた男たち。
 
平山造船中将は以下の如く説く。日本が巨大戦艦「大和」を製造することで、米英の脅威となる。それだけではなく、大和よりも更に巨大な戦艦を製造しようとなり、米英の国費を浪費させることができる、戦争を回避、あるいは先延ばしにすることができる。
しかし、平山はさらに先を考えていた。平山と櫂が大和の模型を見て話すシーン。この映画のクライマックスはここだ。平山は、米英との戦争は避けられない、そして国力物量において劣る日本は必ず負けると説く。しかし、「日本人は負け方を知らない」と。これまで歴史上において日本は外国に負けたことがない。強敵である大国ロシアに勝ち日露戦争を勝利で終えた日本。日本国民は未だその勝利に酔いしれ「誇り」と「慢心」のなかにある。故に、最後の一兵卒まで戦うことになりかねない。そうすれば国が亡ぶ。だからこそ、日本国民に大いなる期待を抱かせ、彼らを熱狂させるような、世界一の、誰も見たことがない立派な巨大戦艦、「日本の象徴」となるものを創らねばならない。そして「日本の象徴」である巨大戦艦「大和」が沈められたとき、その時こそが日本が敗れるときであり、敗戦を認めるときなのだ。日本が沈む前に、国家喪失の前に、日本の身代わりとなってすべてを引き受け、巨大戦艦「大和」は、壮絶な最期を遂げなければならない。このように、平山は語る。
つまり、負け方を知らず、敗戦濃厚でも最後の一兵卒まで戦いかねない日本国民の士気を下げ、敗北を受け入れさせるために、巨大戦艦「大和」に壮絶な最期、敗北を担ってもらうと言うのだ。
 
ラストシーン、完成した大和。振り向き、水平線へ進んでゆく大和を見つめる櫂。何も知らぬ一人の将校が「まさに日本の象徴ですね!」と明るく誇らしく言う。
それに対し櫂は、
「僕にはね、あの艦(ふね)が日本のように見えるのだよ」
日本を背負い、日本の身代わりとなる大和に「国家」と「生命」を感じた。まさに大和=日本そのものだ。日本の運命を担い、壮絶な最期を遂げねばならぬ大和がなんとも健気で…いや頼もしいと言おうか哀れと言おうか、このラストに鳥肌が立ち感涙せずにはいられなかった。
日本人の多くがアジア・太平洋戦争について愚かな戦争をしたと考えている。大和については、無用の長物をこしらえたと自嘲しながら、未だに日本人の心に伝説として誇りとして刻まれている。大和を描いた、あるいはモチーフとした作品が多いことからも、日本人にとって大和が何を意味しているかは明らかだ。
この映画は、非常にうまく描けており、歴史上の事実ではないが、「そうであったかもしれない」と思わせるような納得いくシナリオになっている。

「数字は嘘をつかない」数学がこれほど美しいとは…この映画に出会い初めてそう思えた。
「やるなら徹底的に小さいことを全力で」「役に立たないことをする」「やってみなきゃわからない」この作品を見て当たり前のことを忘れていたと気づかされた。
この映画を見て欧米人は何を思うだろうか、知りたいものだ。
 
平山造船中将と嶋田海軍少将の電話シーン。このシーンでふとシークエンスに違和感と興味を持った。平山は嶋田からの電話で永野海軍大将と山本海軍少将から邪魔者が海軍内部に送り込まれたことを聞く。その際、「櫂直」の名前を聞く前に、平山の回想として、スクリーンには平山が「櫂直」と初めて会い挨拶を交わしたシーンが映し出される。その次に嶋田が「櫂直」の名前を口にする。そして平山は「あいつか…」と呟く。永野、山本から送り込まれた「邪魔者」と聞いて記憶を起こし名前を一致させるか、名前を聞いて記憶と結びつけるか。平山が「櫂直」と初めて会い挨拶を交わしたシーンが、嶋田が「櫂直」を発する「前に挿入される」か「後に挿入される」か、どちらが自然に思えるだろうか。この映画のように「前に挿入される」ことで、平山が「櫂直」に出会った時点で何かしら引っかかるものがあったということがわかる、あるいは平山に人を疑う性質がある、後ろ暗いことがあるということが描写されているように思う。
もし私なら、あるいはこの映画の平山の立場でなければ、嶋田から「櫂直」の名前を聞いて初めて回想し名前と一致させる気がする。
 
この映画で唯一残念な点がある。それは、華やかなりし1930年代のお嬢様、それも財閥の御令嬢が「三つ編み」という点だ。1930年代の松竹映画に登場する令嬢たちは、いくら女学生でもパーマだ。三つ編みは、『隣の八重ちゃん』(1934島津保次郎)など、小市民の女学生のような気がする。そして、櫂を追い駆けて来た港で、令嬢は帽子を取って会話しているが、家庭教師兼書生と令嬢では身分が違うのだから、別に彼女は帽子をかぶったままでよかったのではないだろうか。
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