海

この世界の(さらにいくつもの)片隅にの海のレビュー・感想・評価

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呉の海沿い、国道31号線をずぅっと行きよったら、おっきい公園が見えてきますが、なんであんなおっきいんかいうと、昔はあそこ呉ポートピアランドいう遊園地じゃったけえなんです。ちょうどわたしが生まれた年に閉園してしもうて、あいにくわたしは公園になってしもてからの姿しか知らん上に、冬生まれじゃけえかしら夏より冬の海んが好きなもんで、行くときはいっつも冬でねぇ、ほんでももう三度ほどあそこに立ち寄っとる。はじめてあの場所に行ったんはよう晴れた寒い日じゃった、あの日、近くの海岸で貝殻拾うたり海水に触うてみたりした後、公園でご飯食べてぼーっとして、ほんでまた海沿いの遊歩道を歩いとって、不思議なもんを見ました。西に傾いた太陽が、海を白や紫やオレンジに染めあげとって、海って色ないんじゃろか、それとも青に色ないんじゃろかて、正解さがすんじゃのうてわたしの「なんで?」にいっつもお返事くれんさったあのひとがここにおったら何て言うてくれるじゃろて必死に考えとったとき、波の上できらきらて踊りよった陽光のひとつが、宙に浮かび上うたように見えたん。目ぇこすって何度か見つめ直しても、やっぱりときどき浮き上うてくるように見えるん。しばらく見つめ続けたあとそれ動画に撮った。ああいうんって、わたしに見つけてほしうてあっちからやってくる場合と、ただわたしが見つけてしもうた場合があるんね。帰って見返した動画の中じゃ、眩しい光の粒も、瀬戸内のおだやかな波も、海面から離れたり一度もせんじゃった。(この動画は今も大切にしまっとります)最近そのことふと思い出したけえ広島で長う暮らしたことのある母に「広島で不思議なことがよう起こるんは、そういうん多い場所じゃったりするんかなぁ」て聞いてみたら、「今日すれ違った人のうち、いったい何人が生きとる人間じゃったかなんて、わからんじゃろ」て返ってきた。去年の忘年会で、同僚の女のひとと不思議な体験の話しよったときも、ふいに彼女が「広島はね、ある時期になると黒い靄がぽつぽつ出るんですね、あれは避けて歩かにゃいけんのんですけどね」て言いんさってね、でもそんときの顔が何となく優しげじゃったせいで、このひとはあの街でそれ以外にも何か見たことあるんかもしれんわぁ思うた。わたしが見たあの光の粒みたいなん見たんかもしれん思うたら、なんかこのひとのこと好きじゃわぁ思えてきて、最近たまぁに駐車場まで一緒に帰る。親しい人が死んじゃってからそういうんが見えるようなったってそのひとは言うとって、昔から見えとった母はわたしと妹が大きうなるにつれて見えんようなったって言うとった。わたしは、わたしと違うときにわたしと違うからだで生きとった誰かに向かって、苦しかったねぇつらかったじゃろねぇてできるだけ言いとうないん、その相手が今生きとってもそうじゃのうてもおんなじことじゃ。苦しいんもつらいんも皆わたしが思うとるよりいっぱい知っとるのわかっとる(つもりなん、いつも精いっぱい)けどやっぱり、わたしがなんぼ分かったようなこと言うても、それに何にも言わんじゃったり言えんようなったひとがここにおりたい理由が違うこと言いとうてじゃったら、わたしひどい人間になってしまうじゃろ。それがいやなん。苦しいことつらいことになんぼ「わかるわぁ」て言えても、悲しいことに寄り添えるんは「わかるわぁ」じゃのうて他に何も考えとらん「すき」とか「ありがとう」とか「ごめんね」て声だけなんと違うかねぇ。人の数だけ言われてきたじゃろことばを、自分もおんなじように言うちゃろてならんのんは、ただ星の数ほど繰り返してきたじゃろ記憶を、わたしそのひとから聞こえるまで待っときたいけえです。わたしは能天気なんかねぇ甘ちゃんなんかねぇ、それともなんもわかっとらんのじゃろか、「死んじゃったひとのきれいがったもんやら好きじゃったもんの記憶どこに残る思うとるんじゃ」てまた笑われそうで嫌じゃなぁて黙ってうつむいてしまうわたしはえらいかっこ悪う思えて憎いわぁ。ねぇ、じゃけど、なんぼ聞こえんで見えんかってもあっちからは何でも聞こえとるじゃろ見えとるじゃろて信じとるけえ、わたしらは誰かをこわがらせる本音や傷つけてしまう嘘をまだそれ知らんうちから解ろうと努力したんと違うんかねぇ、そこでどんないろんなことが起こっとるか知っとうても街の灯ぃ見て「きれいなねぇ」て言うてしまうんと違うんかねぇ。死んでしもうたり別れてしもうたりもう会えんひともいつかは生きとってここにおったん、ほんで今もおんなじ場所で生きとるわたしもいつかは死んだ後の魂じゃったことを考えるたんびに、生きとることがどんなにすばらしうて嬉しいことなんかちょっとわかる気がするんよ。教えてぇね、あなたはどんなひと好きんなって、ちいちゃいころ何が好きじゃって、夏と冬じゃったらどっちの海が好きなん。わたしにも大好きじゃったひとがおって、そのひとわたしに「一緒におるんが海ちゃんじゃったらそれでええわもうなぁんもせんわ」て言うてくれたことがあるんよ、そんときわたし、このひと他に選んだ人がおるくせに何言うとんじゃてむかついたつもりじゃったんに、なんか口に出したら泣いてしまう思うて何も言えんじゃった、それが自分で自分のことぎゅってしたときの気持ちとあんまり似とったけえ怖かったし嬉しかったん、あれからそんなふうな愛をくれるひとにだけはめっぽう弱いん、あれだけにはかなわん思うんよ。あんなふうに愛される日またくるんかな、ほんなら、もう何もいらんけえこのまま一緒におってよって今度こそ言いたいわ。ちいちゃいころはね、眠ったふりするん好きじゃった。大人のおっきい手が髪の毛とかすたんびにわたしのこと話すん、「かわいいねぇ」とか「あらここ怪我しとるわぁ」とか「こないだこの子絵描いてね、おっきな賞もろうたんよ」とかって話すん。嬉しいなぁこそばいなぁ思うてたらほんまに眠とうなってきて、まだ聞いとりたいけえ眠りとうないよて思いながら次目ぇ覚ますときはお風呂の時間じゃったりなんべんもしたわぁ。撫でてくれんさったあの優しい手とおんなじように、できるだけさりげのうしてわたしもそこにあったわ。大人なってからはねぇ、猫の頭撫でるたんびに、このちいちゃい体からもいつか命抜けてしまうんかぁて頭で考えるんじゃけど、全然理解できんのん。ねぇあなたはどんなじゃったん、ねぇ、そうやっていろんな形に変わってしもうてでも、死んでも忘れんことってほんまにようけえあると思うとるんよわたし、海で拾うた貝殻がいつまでも波の音忘れんと繰り返しとるみたぁに。呉の海はほんまにきれいなねぇ、樹木希林さんの訃報聞いたんは尾道行った秋じゃったわ、おばあちゃんちの近くに住んどっちゃった女の子げんきしとるんかしら、社会見学で平和記念資料館行ったとき、ずぅっと泣きそうじゃったけえ、泣かんように必死にくちびる噛んどったなぁ。あの日噛んどったくちびるであのひとに触れて、美味しいご飯食べて、覚えたことばつなげて話しとるん、不思議なよね。何でもないようなことに見えとったんに、ほんまは大切で今にも泣き出しそうなことって、わたしらがぼんやり思うとるよりもえらいいっぱいある。わたしね、そんなんをひたすらに、冬の海の上でも、眠うてしもうた遊園地の中でも、影の残っとる記念碑のそばでも、猫がいっぱいおるあの坂道でも、雨の日のアーケード街のいろんな人の匂いの中でも、どこでもいいけえただずっと、繰り返しとってほしいと願っとるんです。もうとっくに生まれ変わっとってからほんまはここにおらん魂でもええん。ただわたしがここにおるかぎりあなたもそこにおるんと思う。あなたがおって見とってくれんさるけえわたしここにおられるんじゃもん。つながっとるんですわたしらみんな。あの優しかった手に重なっていったちいちゃいころのわたしみたぁに、永久につながっとるんです。あなたがしあわせじゃった日、あなたが好きじゃったひと、あなたが泣いて笑うて生きとったこと、それとおんなじようにわたしも今生きとるんは、不思議なし、温うて大きうて、ほんまえらいきれいなねぇ、ほんまになんぼ寒うても悲しうてもうつむいとる暇なんかないわ、広島の街はきれいなねぇ、海も風もここで見たぜんぶの光。自分のからだ温いんも、あなたと触れとったらもっと温うなるんも、わすれちゃいけんよね。この街をずっと流れ続けとる歴史やら自然やらどうもありがとう。わたしは、大雪の日に、広島で生まれた命じゃけえ、見えるひとも見えんひとも過ぎたことも選ばんかった道も、いつかここで会いましょ。ねぇ広島きんさったら、歴史たどったり本を読んだりするんとおんなじだけ、この街の風や海や神社や、花や蝉や猫の声に、どうか耳すましてみてください。聴こえるもんの中に、いっぱい想像してください、ちょうど絵描く時みたぁに、あのときのおおらかで丁寧なんとおんなじ気持ちで。戦争をよう知っとるはずのこの国からも、戦争をよう知っとるひとは、わたしらからちゃんと姿見えんようなっていきます。この世界に、今の時にしかないもんがあるんじゃったら、それはわたしらの感情だけ思いますけえ、突然にもゆっくりにもふくらむあの心のせまくるしさを、なんも知らんままのわたしらが、忘れんかったらええんです。
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