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mid90s ミッドナインティーズのぴのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

『ウルフオブウォールストリート』や『21ジャンプストリート』などに出演し、一躍人気のコメディ俳優になったジョナ・ヒル。
私がジョナ・ヒルを好むようになったのは、ガス・ヴァン・サント監督の『ドント・ウォーリー』を観てからである。
主演であるホアキン・フェニックスや、そのパートナー役を演じたルーニー・マーラを軽く凌駕するジョナ・ヒルの演技に目を奪われ、涙した。
「ジョナ・ヒルはコメディ俳優なんかじゃない。一流の俳優なのだ」と確信した作品だったことを覚えている。
コメディで育ち、人間そのものを演じられる一流俳優になったジョナ・ヒルがメガホンを取った1作目が、この『mid90s』である。

結論から述べると、脚本の粗さが少し気になったが、全体的にはよくできた作品だと感じた。
鑑賞ポイントを下記に要約してみた。

【鑑賞ポイント】
・スティーヴィーの「兄殺し」と神としてのレイ
・スケートボーディングは単なるスポーツではなく「自己表現」と「解放」
・画そのものの価値

まず、サニー・スリッチ演じる、スティーヴィーの「兄殺し」について。スティーヴィーには父親がいない。スティーヴィーに音楽を教えてあげたり、遊んであげたりするのが、兄のイアンである。
父親の代わりにスティーヴィーを大人の世界に押し上げる人物のひとりだ。ただし、イアンは容赦なくスティーヴィーに暴力を振るう。スティーヴィーにとってのイアンは、憎悪と尊敬の対象なのである(なお、この二つの概念は相反するものではない)。
しかし、スティーヴィーは家での居場所をなくし、暴力によって自己を抑圧される。その兄から引き継いだ暴力性は兄ではなく、自己へと向かう。自己を兄に投影し、兄殺しを行なう。こうしてスティーヴィーは大人への階段を歩み始める。

スティーヴィーはその後、スケートを通してもうひとりの兄、レイに出会う。レイはスティーヴィーを仲間に引き入れ、救いの場を提供した張本人だ。
レイは、「スタンド・バイ・ミー」におけるクリス(リヴァー・フェニックス)だと思った。クリスはゴードンにとって兄であり、神であった。暗い家庭から引きずり出し、救いを与えた存在だった。

レイのおかげで、スティーヴィーはスケートとは自己解放のことなのだと気付かされる。
また、レイは映画のラストで言う。「お前が傷つく必要はない」。このシーンについて、ジョナ・ヒルはこう語っている。「誰かに好かれるために、自分を偽る必要はない。ありのままでいいんだってことをこの映画で伝えたかったんだ」。

次にスケートボーディングは単なるスポーツではない、という点について。
ジョナ・ヒルがインタビューで語っているように、90年代、男性は今ほど自己表現することに肯定的でなかった。劇中でそれがよく表れているのが、ルーベンの台詞である(「お礼を言うとか、ゲイかよ」)。
そこで自己表現・抑圧の解放の手段として、用いられたのがスケートボードである。Odd Futureの一員であるTrash TalkのLeeは、インタビューにてスケートボードとライブは解放であると語っている。
ジョナ・ヒルはmid90sにおいて、スケート映画であるにもかかわらず、トリックを映さない。スケートは、「自己表現・解放」の手段であり、目的ではないからだ。

最後に、画そのものの価値について。私は、映画の評価をする際には、ストーリーが秀逸かどうかや、光る演技があるかどうかなどのほかに、価値のある画があるかどうかを見ている。
たとえば、『戦場のピアニスト』の荒廃した街を歩くシーンや、『ウォールフラワー』のトンネルを車で駆けるシーンは、あの画そのものに圧倒的な価値を宿している。
『mid90s』では、道路の中央分離帯をスケートで滑っていくシーンにすべてが詰まっているといっても過言ではない。あのシーンを見れるだけでも、この映画が撮られた意味があったと思える。たとえストーリーが好きでなくても、あのシーンで心を奪われない人はいないだろう。
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