つのだなつお

ROMA/ローマのつのだなつおのレビュー・感想・評価

ROMA/ローマ(2018年製作の映画)
4.0
 男が女の、大きな黒目が印象的な瞳について語るシーンで、この映画が白黒であることの意味がわかった。眼はカメラだ。瞳が、レンズの絞りが光を取り込んで陰影が記録される。時代の片隅に確かに存在していた人々が明瞭な陰影の形を伴って現れていく。

11月16日、最近全くみなくなったNetflixを解約することに。メンバーシップ最後の日に選んだのはRomaにした。オリジナル作品が最も高い質とアクチュアリティを持っていた頃の作品。レンタルビデオサービスの中小企業だったNetflix。Amazon等のコングロマリット大企業によるそれと違い、映像コンテンツを扱う会社によるストリーミングサービス。つまり映像を愛する者たちによる運営、だからこそ質が重視された作品がオリジナルコンテンツで送り出されていった。あの時、誰もがNetflixに期待していた。映像コンテンツ産業の構造を改革し勢力図を塗り替えるのだろうと。
しかしその期待は叶えられていない。結局のところ大資本化したNetflixが他企業と同じように既存の構造に加わっただけだった。Amazonやディズニーと何も変わらない。従来の製作システム、広告システムを利用するただの大企業が一つ増えただけ。何の変革性も持たない、既存の価値観を再生産する作品ばかりが発表されていく、いつしかオリジナル企画の発表を見聞きするのが辛く感じるようになってしまった。

Romaは監督が自身の子供時代を、家のメイドと母親を中心に、当時の社会と自身の家庭環境をフェミニズム的解釈で描いた作品だ。
監督はアルフォンゾ・キュアロン。名匠には違いないが、パーソナルな作品でこれほどの企画が立つほどのネームバリューはない。(スピルバーグのフェイブルマンズでもコケるのに)しかも白黒で、長回しの多様、非英語圏が舞台、劇中で英語が使われていない、スター俳優が1人もいない、そんな旧来の劇場公開システムならば宣伝や配給もままならないどころか、制作費が集まらず頓挫するであろう作品をNetflixはオリジナルとして制作し世に送り出した。
劇場でかかっていても観に行かないような作品でも、オリジナルという名目でホーム画面に出てくれば観客は見ても構わないと思える。Romaは多くの観客を獲得しプラットフォーム内でランキング1位にもなった。翌年Netflixが製作費を集めらなかったスコセッシに、「アイリッシュマン」の企画を成立させたのもこうした理由からだった。クリエイティブが媚びることなくやりたいことを実現させて、それが多くの人に届けられる。そんな夢のような話がこの時期のNetflixにはあったのだ。
非英語圏の話ならセリフは英語を使わない、何処にでもいる先住民の家政婦を演じるキャストは先住民の非有名人にする。言われてみると当たり前に思える、しかし商業映画をつくる上で無理だったこと。Netflixは製作陣にそれらを可能にした。

それにしても本当によくできた映画だ。
繰り返される水(=羊水)のモチーフ、最初の掃除シーンで満月を形どる水、炎を消す水、クライマックスの海。主人公が海で子供達を救い出し海から陸に上がって抱えてきた思いを吐露する。従順な家政婦ではなく1人の人間としての自我を持つ、彼女はここで新しくこの世界に海から生まれ落ちている。
デートの直前でテレビから流れる強靭な男のイメージ。入った映画館で上映されている戦争プロパガンダ映画。ひどい男との恋愛の行末と争いに向かう社会を通して、時代にあるマチズモの気配が非説明的に提示されている。
家族と召使の主従関係に隠された民族間の差別と格差が、犬(忠実の象徴)が糞を撒き散らすといった比喩や、流産後の休みなのに荷物をもたせたりパーティの輪には入れないなどといった日常の細かい描写で表現されることのさりげなさ。
夫の買った車体の広い車を妻が運転して傷つけてしまうという(我が家と一緒で笑ってしまう)マチズモの愚かさとそれに女性が振り回されることの表現。
暴力性を発揮していく男性たちと、その目覚めに対する男の子の困惑の表情。
cgではなくエキストラを雇うからこその暴動シーンの無機動さや、ワイドな画面上を人々や車が移動する画のダイナミズム。
人と物体の横移動を映画全体の文法にしておいた上での、ラストで解禁される縦移動の開放感。
白黒で強調される、全編通してのライティングとカメラワークの異常なレベルの高さ。
圧倒的な芸術性。少なくとも視聴ランキングで一位を取るような作品には思えない。


優れた映画言語は、優れたものの見方によって構築される。
子供時代に起きた出来事、周りの人々が感じていること、その関係性の中にある力学に注視し、社会的な解釈を加えること。そこには確かな感受性と知性がある。
主人公の深い輝きを持った優しい眼差し、これは監督の目でありカメラだ。カメラは映した物事の本質を浮かび上がらせる。なぜなら物事はどうであるかではない、どう捉えるか、どの視点から見るかだからだ。この映画でのカメラは固定され様々な視点から出来事を切り取っていく。その映し出すという動詞がそのまま映画になる。だってカットとはシークエンスとは、映画とは"ある視点"なのだから。
かつて観た時代と人々をアルフォンゾ・キュアロンと製作スタッフ、そしてNetflixは彼らの視点の中に蘇らせた。
この映画に関わった彼らの真摯な姿勢にリスペクトは尽きない。