ルサチマ

天竜区奥領家大沢 別所製茶工場のルサチマのレビュー・感想・評価

5.0
3回目 2021年8月17日 @アテネフランセ

今年も天竜区の地を見つめることができた。
資本主義において昼は労働者の時間として位置づけられ、夜は本来労働活動の停滞期として位置付けられていたはずだが、現代において夜の光は強まる一方だ。
そんな現代社会から物理的距離を取り、霧に度々包まれる天竜区の製茶工事で働く人々の姿が見せる姿はいかなるものか。

天竜区シリーズの1本目にあたる今作は夜をいとも簡単に通り越す時間の省略が実践され、気づいたときは山間に太陽光が差し込み、労働者が外へと歩き出す。

夜の人々の姿は家の中に籠り、そこでの生活の姿は隠蔽される(最もこの夜の生活がその後の天竜区シリーズでは顕となっていくのだが)。

夜をさっさとやり過ごした労働者の姿は、自らの身体を製茶の工程の中に位置づける。
今作の製茶工場の中で描かれるのは機械が運動する作業工程というよりも、工場の機械が製茶の工程を労働者に分け与えている姿だ。

労働者は、茶葉を日当たりの良い室内で色が変わるまで置いたのちに、機械の中に入れ、茶葉が掻き混ぜられるたびに手で触っては色と大きさと質感を確認する。
工場の機械は、労働者の作業を楽にさせているのではなく、労働者に機械の制止ブレーキを使わせる(労働者は機械の労働管理をさせられており、労働の手順は決して減るだけではない!)。

都心から物理的距離の取られた天竜区においても、機械による労働の分け与えが確実に存在し、夜をやり過ごした彼らが働く日中は機械的に作業する工程が詳らかになる。

しかし間違ってもこの正真正銘の映画は辺鄙な土地にまで進む近代化を嘆いた作品などではなく、その機械的労働作業の中で人々が共存して暮らす景色を示す。

外の茶畑で働く人々はバラバラに個々の作業に専念しながらも熟練の手捌きで手際良く茶葉を摘んでいく。彼らの立つ位置関係も目線も一切の一致を拒みながら、彼らは同じ作業を共に分けあうことで共同体を形成しては、つかの間の休憩で工場前に集うだろう。

また工場の中へカメラが移動すれば彼らは共同体の形成方法を変容させ、茶葉が流れゆく工程を手際良く且つ真剣に探ることで、茶葉のルート開拓へと意識が向けられる。

工場を支配するのは金の流れではなく、紛れもない茶葉の流れ。茶葉が洗練される過程で人々は互いのチェックポイントを的確に判断しては、入れ替わり立ち替わり空間を移動し製茶作業を進めていく。

彼らは機械化の中において、全てを一人でに済ますのではなく、あくまで互いに作業を分担し労働を実践する。そのことが何よりも美しく力強い生命力に満ちている(夜を超えて逆光の朝日に照らされる茶葉の美しさと、それを捉えるカメラの引きから寄りへのデクパージュの素晴らしさを見逃してはならない!)。

この労働者の連携を見つめる堀禎一の眼差しは現代社会を生き抜く方法を考え続ける手がかりを与え、奇跡のようなユートピアを諦めない希望を投げかけている。


2回目 2020年7月18日 @神戸映画資料館

正真正銘の映画。
徹底してモーションでのみ繋げられていく画面。1つ1つの画面に射す自然光の柔らかさ。そしてテンポ良すぎる編集。ベルトコンベアで山を登っていく爺ちゃんは西部劇のように、工場の機械たちはまるでホラーのように、工場で働く人々と工場の外で呑気に欠伸する犬の繋ぎ、昼の画面が続く時間の経過を優雅にぶっ飛ばす編集は、ロジエのような現場の発見と、ベティカーみたいな簡潔且つ驚きに満ちた編集センスにより成立する。
2名の撮影クルーで優雅なかつてのハリウッド映画さながらの画面を見ているような感動がある。
工場の外の白飛びしかけた緑と人の手によって黒々とした茶の葉の緑。機械によって宙をまう茶の葉のアクション。手際の良い茶摘の動作は、ジョン・フォードのように労働に従事する仕草が映される。
カメラも手探りに茶摘みと製茶の工程を捉えている。山々から段々畑、レール、集落、茶摘の人々、工場へ、ラストは工場の出口から人々を見送り、山々から段々畑へのパン。
犬のジョンが静かにカメラの前に静止してから突然吠えだすサスペンス。
堀禎一の3回忌に合わせて特集された本企画のために神戸まで観に行った。劇場を出たら三浦春馬の訃報が届いた。

1回目 2018年10月26日 @K's cinema

ショットの構成要素が簡潔にあらゆる剰余を排除し、天竜区の地形を露わにする。
大袈裟でもなんでもなく、未だ誰も到達していなかったドキュメンタリーの境地を新たに開拓した一本だと思う。
ルサチマ

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