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未知との遭遇 ファイナル・カット版のtntnのレビュー・感想・評価

5.0
久しぶりに見た。こんなにヤバい映画だったのかという驚きに尽きる。
スピルバーグにとって、映画(映像と音)とは、小手先の「愛」の対象などで全くなく、畏怖の対象であり、「見たくないのに見てしまう」ものであり、恐れ慄きながらも否応なく惹かれてしまうものである。ここに、本作の、スピルバーグのヤバさがある。
砂嵐や夜空にいくら目を凝らせど何も見えず、そもそも言語圏が違うだけで直接的な意思疎通もおぼつかない。そんな人間達が、比較的簡単に共通して理解できる要素は、
・めちゃくちゃデカい物体
・めちゃくちゃデカい音
・めちゃくちゃ眩い光
という3点に分類できる。
そしてそれらを全て兼ね備えているのが、本作の宇宙船なのである。
目を瞑りたくなるほどの白・赤の光を発して、それを見た人間を釘付けにするという宇宙船の到来を、スピルバーグはその予感だけを繰り返し描く。ここでは、見せる宇宙船・宇宙人ではなく、「見る」(見たくないのに見てしまう)人間が主人公である。人間達が見てしまう場面を描く演出のなんと凄まじいこと!バリーが攫われる家の場面は、ショットごとのイメージが鮮烈すぎて震えた。
宇宙船を見る=接近遭遇する場面を執拗に見せられるうちに、映画を見る行為との境目が曖昧に感じられ、そしてスピルバーグの異常な「映画人」としての作家性に気が付く。
宇宙船を見てしまった側の人間が、模型や模写を繰り返し、ついにそれ自体を直接見る段階では、言葉は消え失せただ恍惚とした表情がひたすら映される。それでも、テリー・ガーは最後の瞬間までフィルムを巻き続ける。
模像からリアルへ、リアルから表象へ。
映画史上最初のシネフィル世代として、シネクラブで映画を見まくっていた人間達がヌーヴェル・ヴァーグを引き起こし、その数年後に最初の「テレビ小僧」世代として、テレビで映画を見まくっていたスピルバーグが登場する。イメージに対する向き合い方は、確かにちょっとゴダールも連想する。『アワー・ミュージック』におけるゴダールによるホークス映画講義、個人的にはよくわからなかったけど、スピルバーグなら納得しそうな気がする。
一方で、宇宙人との交信において重要になるのが、記号であるのも面白い。宇宙船から発せられた「何か」は、数字になり、音になり、色になり、座標になり、経緯度になる。
恣意的にすぎない記号表現が、相手に通じてしまうという驚きと感動。
あと、60−70年代のアメリカのホラー映画(「黙示録」的ホラー映画)の恐怖の根源には、「家族」神話が崩れる不安があるというロビン・ウッドの指摘が、本作にもばっちり当てはまる。
母性神話も、父権もとっくに崩れ去った時代において、家族という共同体にいる人間たちの紐帯は全く自明ではない。
マッシュポテトのボウルをパスするという制度すら守れない男と、なぜ一つ屋根の下、同じ食卓を囲んでいるのかがわからない不安に襲われた妻と息子。それに気づき、「I'm still Dad.」と自分に言い聞かせる主人公のやり取り。家族間の絶望的なすれ違いと微かな交流が描かれた名シーンだと思う。(このシーンを見返して、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のラストが解釈できた気がする。)
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