ふたーば

ジョーカーのふたーばのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

意外と感想を述べるのが難しい映画だと思った。

アーサーという男は、重い過去やらどん詰まりの生活やら復讐心やらと、一見すれば悪役になるための諸々の条件を揃えているようにも見える。だが、この映画の中でアーサー自身がコントロールできていた物事は、ほとんど何もない。歴代のジョーカーたちが、ヒーローを弄んであざ笑い、自分の知性をひけらかし、煙に巻くようなセリフで人を扇動していたのとは対照的だ。むしろ、アーサーは人から見くびられ、周りに翻弄されて右往左往し、常に必死に自分の居場所を探そうとしていた。彼は最初から最後まで終始一貫して助けを求める側でもある。

稀代の大悪党なのに、アーサーには全く存在感がない。人が彼を恐れるのは、彼が暴力を用いるか、用いる可能性を示唆しているときだけである。

そんなわけで、このカリスマ性皆無のジョーカーは結構賛否両論らしい。確かに、『ダークナイト』でこの世の春のごとく悪徳の限りを尽くしていたジョーカーとは似ても似つかないから、弱いジョーカーなんて見たくないという人が多かったのかもしれない。アーサーのジョーカーに「美学」なんてものは初めからないのだ。

でも、私はずっとこのジョーカーから目が離せなかった。

いや、「ずっと」というのは正確ではない。この映画では、見る者がジョーカーの行動に共感性羞恥を覚えるよう仕向けている場面も多かったと思う。アーサーがネタをカウンセラーに説明するときも、舞台で実際にスベるシーンも、いかにも気まずい雰囲気が流れるし、そういうシーンのイヤな沈黙やアーサーの発作的な笑いはかなりしつこく描写される。

私は、基本的にこの映画ではジョーカーの心情を追いかけるようにしていた。でも、そういうシーンだけは見るのがつらくて、心のなかで「早く次の場面に行かないかな……」と思っていた。これは実は、ジョーカーではなくてその周りの、異様にアーサーに厳しい人たちに共感してしまっていたのではないか。

この映画ではアーサーという男の憐れさや怒りといった感情に対して見る者に同情させながら、「もしかしたら自分もジョーカーかもしれない」という可能性を期待させるエンタメとして機能している部分もあるにはあると思う。だけど他方で、そういう「痛快なアンチヒーローもの」として見られることも暗に拒絶しているように思える。だから、そもそもアーサーには悪を為す才能がなかったことも、随所で繰り返されてるのではないか。

社会で生きる能力も、人から好かれる才能も決定的に足りないアーサーを、果たして誰が救えるのか。それは誰の責任なのだろうか。本当に彼は悪役なのか。そしてそもそも、本当に彼は「狂気」に支配された人間なのだろうか。

また、「アンチ社会」というアイコンになるか、刑務所や精神病院の独房にしか自分の居場所を見つけられない人間を、社会はどう扱うべきなのか。その声にどれほど耳を傾けることができるのか。傾けたとして、その声をどうすべきなのだろうか。

この、明らかに不当な扱いを受けており何らかの救済は必要だけど、同時に排他的で、生の暴力も欲している人(精神病患者はそうではないけど)らとどう対話するか、という点。これが極めて2016年以降の大統領選以降のアメリカらしいと思った。

ホアンキン・フェニックスはこの映画ではじめてみたけど、憐れで惨めで、そしてせっかくの「晴れの舞台」でもうまいこと振る舞えず、衝動的にあの「タクシードライバー」のデニーロを殺してしまう「本当の小物」を見事に演じきっていたと思う。あれだけ足がすらっとして顔の造形も所作も美しいのに、踊っているシーンはどれもどこか幼稚な陶酔感が拭えない、ダサい男そのものだった。

それにしても「ジョーカー」という存在は、アメリカでは相当愛されているんだろうな……幾度となく銀幕の中に現れて、そのたびにその時代の悪のあり方を示して見せて姿を消す。まるで日本のゴジラのように、社会の不満が高まると一旦全部を破壊してもらいたくなる存在なんじゃないかと思う。次はどんなジョーカーが現れるのだろう。
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