「僕の人生は悲劇ではなく喜劇さ」
アーサーが堕ちていく姿は、痛々しいが美しくもある。
客観的に見れば悲劇そのものだが、自分で生き方は決められる。善悪、良し悪しなんてものは各々で違うし、個人で変えることができる。
いや、変えざるえないのだ。狂った世界でやっていくには、笑うしかない。そうしないと、とても自分がもたないから。
「自分がおかしいのか、世界がおかしいのか」とはよくある構成だ。パッと思いつくもので、「天気の子」、「マトリックス」などがある。
世界から突き放されたり攻撃されることで、主人公は悩み苦悩する。その主人公の葛藤に、私たちは感情移入する。そして、主人公が最終的にマジカルな展開で報われることで、私たちはカタルシスを得ることができるのだ。
「天気の子」の主人公は、汗だくで階段を上がった。一方のジョーカーは、踊りながら階段を下がった。
二人は正反対に思われるが、自分の存在価値を手に入れたと言う意味では同じである。どちらの姿も美しく、ある意味ハッピーエンドだ。やはり強い覚悟や意志には胸に響くものがある。
ホアキンフェニックスの嘘っぽい笑い声が最高だった。本当はなんとも面白いとは思ってない。何が面白いかわからないし、笑えるような精神状態ではない。そんなきつい日々を送っている。そんな状況を打破するための有効な手段としてのコメディ。笑顔。
コメディにおいて、基本的に何が面白いと感じるかは、いわゆるツボは人それぞれだと思う。
だが「お笑いがわかるか」という視点で見ると、個人の教養や知的レベルが大きく関わってくる。笑いを理解するするには、教養や知識が少なからず必要となってくるのだ。そしてそれは学校にいけない貧困層が持ち合わせてないことが多い。
アーサーだけ、周囲と笑うタイミングがずれているシーンは、見ていてとても心苦しかった。
自分の努力次第で成功者になるチャンスがある世の中でもあるが、まだまだ劣悪な環境や知的レベルの限界が大きな障害として存在するのは確かだろう。
憧れが嫌悪に変わってしまう話でもある。憧れの対象に拒絶されたら、嫌悪に変わり、その存在を消さないと自分を保てなくなる。熱狂的なファンが狂気的な行動に出るのも、それが理由の一つではなかろうか。ヤバいファンは対象に対して勝手に妄想を抱き期待する。そしてその期待に応えてくれなかった時、憧れが嫌悪感に変わるのだ。
現実か、妄想か、どっちかわからなくなるといった「イカれた映画」だった。一週間は引きずった。それほどパワーのある映画なので、要注意。でも、一見の価値ある映画だと思う。
胸に嫌に響く重低音の音楽、映画史に残るホアキンフェニックスの演技、アクションシーンがないのに目が離せないストーリー展開。
名作です。
ーーーーーネタバレありーーーーー
好きなシーンは、ブルースウェインとアーサーが柵越しに出会う場面。後のバットマンとジョーカーが微笑み合うシーンには、胸が熱くなった。
子供の前だからと、殺すのをやめて逃げ出すアーサーが、まだジョーカーではないと感じさせる。それに無邪気にアーサーに近づくブルースウェインが、社会を知らないことを感じさせる。
柵を越えて、意思疎通できる世の中。それが理想社会なはずだが、この映画は絶対的な柵を強烈に感じさせる。富裕層と貧困層には頑丈な柵がある。お互いの感情、情報はリアルでは行き来しない。
格差社会=ゴッサムシティによって必然的に生まれたバットマンとジョーカー。二人は、資本主義の被害者でありながら、戦い合う。
アーサーはコメディアンになってみんなを笑かしたかったのに、みんなに笑われるはめになる。笑かすのは喜びだが、笑われるのは屈辱である。主体的なことは楽しいが、受動的なものは苦しい。望んで駄作映画を見るのはいいが、見るように強制されるが嫌なのと同じだ。
自分が笑いものになっているとわかった時のアーサーの顔がおっかなかった。