きゃんちょめ

ジョーカーのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
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【ジョーカーについて】

2021年8月6日に小田急線の快速急行車内で起きた無差別刺傷事件で10人が重軽傷を負ったあとで、2021年10月31日には京王線の特急電車内でジョーカーのコスプレをした男による無差別刺傷事件が発生し、またも18人が重軽傷を負ったらしい。

①「小田急線の事件を参考にした。小田急線の事件ではサラダ油で火が着かなかったので、ライターオイルを使った」
②「人をやっつけるジョーカーに憧れていた。犯行のための勝負服だ」
③「人を殺して死刑になりたかった。2人以上殺せば死刑になれると思った」

と供述しているらしい。

この③の供述が本当だとすればやはり死刑制度というものが時代遅れであるどころか有害であることは言うまでもないと思うが、それ以上に私が気になるのは次のことである。

この映画内でジョーカーがやっつけているのは、他人の尊厳を平気で踏みにじり、利用しようとする人々であり、例えばそれは、72歳の男性の目に殺虫剤を吹きつけて、刃物で刺したり、ライターオイルで電車内に火事を起こしたりするような人なのではないかな、と思う。実際、電車内で女性に迷惑行為をする3人組の若者が作品内で殺されていた。

このようなひどい、無差別刺傷事件を見ていると、『ジョーカー』という映画への憧れやリスペクトがあまりにも希薄なのではないかと思えてならない。

まず先に、仕事で失敗したり、人間関係がうまくいかなかったりしたのである。それで、その後で、その不満を別のものにぶつけることで鬱憤を晴らすために、他人を、ジョーカーを、そして映画を、この青年は利用したのである。

ジョーカーはムカつくやつがいたらそいつを直接やっつけに行く人なのに、この青年は京王線の車内にいた老人に矛先を向けた。不満の捌け口を無差別に選ぶということをジョーカーはしていない。

また、ジョーカーは「自分のメイクにはいかなる政治的意図もない」とテレビで述べていた。ジョーカーはむしろ民衆に模倣される側の人であったし、結果的に民衆から注目されてしまっただけで、注目を求めてピエロの格好をしていたわけではなかった。しかし、この青年は模倣する側の人間であり、しかも注目を求めてピエロの格好をしている。この青年の行為には、ジョーカーのようなオリジナリティのカケラも見られない。あらゆる点でジョーカーの模倣に失敗しているように見えるのだ。

「過激な作品のせいで犯罪行為が増加する」と言う人は、その過激な作品が見られているという前提で話すが、過激な作品がそれほどよく見てもらえているとは私には思えない。また、単に、映画を規制したい人から利用されるだけで、その犯罪行為すらもよく見てもらえていないと思う。過激な作品も、犯罪行為も、どちらもよく見てもらえないまま両者の因果関係だけは平気で主張される。

小林秀雄によれば、主張することのほうが、主張せずにただ見ることよりも遥かに簡単なのであり、黙ることの難しさは、自分がよくしゃべる人間だから痛感せざるを得ない。話しているときほど人が考えなくなるときはないと思う。喋っていると、相手の話すら聞こえてこなくなる。

「ジョーカーに憧れる」と嘯くことができるほど自分は不幸なのかどうかと考えると、ジョーカーことアーサー・フレックが住んでいる家の方が我が家より全然広かったけれど、自分はまだまだ幸せだなと思えてくる(ジョーカーの家は、お風呂も大きくてソファも大きかったのでうらやましかったが、自分は虐待されたわけではないし、仕事も一応あるし、親の介護もしていないからである)。

ゲイリーに対してジョーカーは「優しかったのは君だけだ」と言っていた。このシーンからもジョーカーは無差別殺人をやっているのではないことは分かるはずだ。

要するに、❶人はジョーカーに憧れると無差別刺傷事件を起こさなくなるだろうし、❷人はジョーカーに憧れると無差別刺傷事件を起こすような人をやっつけるようになるだろうし、❸自分には「ジョーカーに憧れた」と言って自分とジョーカーを重ねる資格はないなと思った。
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