ナリア

ジョーカーのナリアのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

冒頭、鏡の前でピエロの化粧をしながらアーサーは涙を流す。
一体何に悲観しているのか。
鏡に映る自己が塗り潰されていく過程に涙しているのか、求められるのはピエロであってアーサーではないという事実に涙を流しているのか、そもそも鏡に映る自分が本当に存在しているのかその不確定さに涙を流しているのか。
それでも彼はピエロという道化役を愛していた。社会がアーサーに見向きもせず必要としていなくてもピエロの仮面を被れば仕事をもらえ、家に帰ればアーサー自身を必要とする母がいたから。
そんな生活の中でアーサーという存在は保たれていた。
アーサーには持病がある。緊張や居心地の悪さを感じると笑いが止まらなくなる。そんな彼はコメディアンを夢見ている。
笑いとはいかなるものか。
これはあくまで、日本で生まれ育った僕の個人的感覚で、その中でも笑いの文化に特別人並み以上の関心もないド素人の見解だが、笑いとは極論、空気を読む営みだと思う。
場の空気を把握し、その規範が許容する範囲でボケてみせ、その空気を逸脱させる。周りがボケと理解できればそこで笑が生まれるし、時にはツッコミによって空気へ軌道修正することもあるだろう。そんな緊張と緩和によって人々は笑う。笑いとは大概そんなシステムでできているように思う。
一方で暴力的な笑いもある。人を笑い者にし(時には笑い者になり)、極限に追い込み、下品な言葉を羅列する。これは謂わば空気そのものを自らに引き寄せ掌握する笑だ。これは常人にはなかなかできない。やってのけれる人々を度々カリスマなんて言葉で称賛したりもするけれど。でも、現代ではなかなか流行らない。社会という空気がそうはさせないからだ。社会の空気があまりに肥大化した現代では、一個人の奇才ではその空気を掌握しきれない。今そんなことをすれば、たとえ奇才であっても、奇人変人として世間に叩かれる。
まぁ、二つに一つという訳でもないだろうけれど。
空気を読む笑い。アーサーの持病は笑いそのものでありながら、それとは相容れないものだ。笑ってしまうことで、居るだけで、そこから逸脱し続けてしまう。
しかし、幸か不幸か物語の舞台は言わずも知れたゴッサムシティー。私たちの知る空気とは別格、別物。であるはずなのに、そこで笑い声をあげ続ける男の姿に私たちはどこか見覚えがあるように思えてしまう。
ためにならないお笑い談義が長くなった、本題に戻そう。

本作のCMでお笑い芸人、劇団ひとりが「ジョーカーに成った瞬間が、あ、ここか」という台詞を述べている。
果たしてそうだろうか、いや、確かにアーサーがジョーカーとして確立する場面は映画的に倫理的に確かにある。しかし多数にちりばめられている。
多くのレビューでは「闇に落ちていく」や「悪に染まってゆく」なんて段階的な表現も多々見かける。しかし、やはり果たしてそうだろうか。
アーサーは自らの出自を知るために母のカルテを手にいれる。そこで自らが養子であること、かつて虐待を受けて育ったことを知る。(母の病は興味深く、妄想性と自己愛性の人格障害だったわけだが、それはアーサー自信にも深く根付いている。妄想性は言うまでもなく、その自己愛性こそが素晴らしいクライマックスをつくりあげている)
これは普遍的なことで、誰にでも当てはまることだが、完全に清廉潔白な人間などいない。闇を待たない人間や、罪を自覚したことのない人間などいない。それはアーサーも然りである。ジョーカーは元よりアーサーの中に、そして我々の中にも同じように存在している。要因は気づいたときにはそこかしこに蓄積し、きっかけは理由にならない。気配を感じたならばもう既にそこにいるのだから、成る成らないの問題ではない。
アーサーの冒頭の涙はそこに依拠するのかも知れない。アーサー(騎士道を象徴するなんと清廉潔白な名だろうか)という一市民として、ありふれた幸せを望む存在でありながら、自らの望まない闇を抱えてしまっている自己に対する涙。通常、人はそのことに目を向けずに(悪いことではない)、もしくはそれを受け入れて生きていく。だからこそ、一度目を向ければ、存在を感じれば、折り合いをつける他ない。アーサーはその自己の在り方の間で葛藤している。
「ノックノック」
何度も自らに銃口を向けながら、“そこにいるのは誰か?”と自問し続けるアーサー、しかしそのジョークの答えを待つことなくアーサーはそこで毎回、引き金を引く。
結局、その折り合いをつけることができなかった彼は、唯一アーサーとしての存在の拠りどころだった母の眼差しを枕で閉ざし、冷蔵庫の中に自ら潜り込む。
ひょっとすると、今でもアーサーはあの冷蔵庫の中で震えながら涙を流しているのかも知れない。
アーサーを押し殺したジョーカーは、中盤、アーサーがゆっくりと、しかし一歩一歩踏みしめるよに登った階段を、陽気に小躍りしながら下ってゆく。認め難いが、途方もなく格好いいシーンである。途端、後方から社会の秩序が追い立てる。しかし、そんな警察も地下鉄のジョーカーを切望する人々によって飲まれてしまう。
冷蔵庫が子宮であるならば、地下鉄は産道だろうか。
ジョーカーはその先で人々の眼差しを得る。カメラの前に立つと、今までアーサーに見向きもしなかった人々の眼差しを感じる。その眼差しに自らの罪を告白し、さらにその在り方を披露する。こうして彼は社会にジョーカーとしての存在を知らしめる。それはアーサーがいくら望んでも手に入れることのできなかった悦びだった。
街に出ればはジョーカーに仮装した人々が暴動を起こしている。そこで彼は復活の儀を経て神格化する。ところが、どうだろう。そこに集まるのはどこを見渡してもジョーカーばかりである。ここに母の病が反復されている。自らが向ける眼差しによって得られる自己完結した存在の肯定。究極の自己愛の画である。
それでも、このシーンを否定できないのは、我々だって日頃より、他者のなかに自らと同じ像を見いだし、そこに安らぎを感じ、自己が肯定されたように感じるからだ。それは自己愛がなければ生まれない営みであるし、その営みを“共感”と呼ぶのかも知れない。ただ、ジョーカーのそれが異常なのは他者というフィルターが一切排除されている点にある。

本作がDCというアメコミ、ヒーロー文化の派生で生れた作品である以上。このシーンはどうしても、今年公開された『スパイダーバース』と比較されるだろう。
『スパイダーバース』では、ピーターの死後、追悼式にてMJの口からスパイダーマンの正体がピーター パーカーという一人の人間であったことが告げられる。しかし、そこに集まった人々(やはりスパイダーマンの仮装をしている)や、MJの言葉によって、スパイダーマンが不滅であるが示されている。
そして、本作のこのシーンである。偶然か必然か、ここまで画的に類似したシーンでありながら、その両者の意義は正に対極。
社会が求める規範をまっとうした隣人と、自ら社会を混沌へと掌握したカリスマ。
マスクの下で自己の存在に葛藤し続けたスパイダーマンと、仮面を被り自己を押し殺すことで問題を放棄したジョーカー。
死して初めて他者(MJの眼差しと言葉)によって社会に正体を受け入れられたピーターと、死ぬことを許されず自己愛の中でのみ悦びを感じその正体に見向きもされないアーサー。
「“共感”してしまった自分にゾッとした」本作につきまとうであろう評価の定型文である。口にする前にその真意を今一度考えてみたい。どこまで鬱鬱しい映画なのだろう。
アメコミ好きならこのシーンにこそ、本当の恐怖を覚えるのかも知れない。

ラスト、拘置所の廊下で職員と逃走劇を繰り広げるジョーカー。くしくもコメディアンを夢見た彼がみせる本作唯一と言ってもいいコメディーシーン。
果たして、どれ程の観客が笑えただろうか。
廊下には彼の歩んだ血の足跡がまざまざと写り込み、固定されたカメラは被写体を追うことなくただ遠くから、しかし真っ直ぐに、見え隠れする彼の姿を私たちに見せつけている。
ナリア

ナリア